同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 結実の考察(第29回) —

野澤 睦雄

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」
(ヨハネ 3:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
(ヨハネ 3:8)

<第6章 聖霊と聖潔>

 今回から、聖潔に聖霊がどのようにかかわっているかを考察した第6章に入ります。

以下に、本章の導入部分を掲載します。
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 「御霊に満たされなさい。」
(エペソ5:18)
 「御霊によって歩みなさい。」
(ガラテヤ5:16)

 救いも潔めもすべてイエス・キリストの贖いによって与えられるものです。ですからイエス・キリストを知ることは、聖潔を受け聖潔に生きる上で欠くことの出来ないことですが、イエスについては他を参照して頂きたいと思います。中でも、H.C.ヒューレットの「主の栄光」(74)を、聖霊の光のもとに熟読されるなら、「私は主にお会いした。」といえる経験に導かれることを疑いません。またジェームズ.ストーカーの「キリスト伝」(75)もよい示唆を与えてくれることでしょう。
(キリスト伝は、英和対訳で掲載中です。)
 これまでの章では、聖潔についても、人間の側を主体に述べて、聖霊についてはほとんど述べませんでした。イエス・キリストの完成して下さった贖いを、私たちひとりひとりのうちに実現して下さるのは聖霊です。
 本章では、直接私たちの内に聖潔を実現して下さるお方、聖霊について聖書の示す事柄を検討します。
 私たちの信ずるキリスト教の神は、父・子・聖霊(コリントⅡ 13:13)の三位一体の神であって、聖霊はその第三の位格のお方です。三位一体の神はそれぞれ人格をお持ちです。ですから人間の人格のレベルで言えば、神は三人のお方だと言っても全く差し支えありません。天地創造のとき既に、父・子・聖霊は、「われわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろう。」(創世記1:26)と言って相談されていますから三人のお方です。その三人のお方が”ひとりの神である”(申命記6:4、マルコ12:29)のであって、人間には理解し難いことですが、聖書の告げるままに受け取ればよいのです。
 神は、霊(ヨハネ4:24)であり、永遠(創世記21:33、ダニエル4:43、詩篇90:2、ローマ1:20)・無限(列王Ⅰ 8:27、ヨブ11:7)・遍在(詩篇139:8-9)・不変(ヤコブ1:17)・全知(サムエルⅠ 2:3)・全能(創世記17:1)なるお方です。また、神は、聖(レビ11:44、ペテロⅠ 1:16)・愛(ヨハネⅠ 4:14)・義(創世記18:25、ローマ1:17)なるお方です。神は、万物の創造者(創世記1:1、詩篇121:2、コロサイ1:16)また保持者(コロサイ1:17)です。そして、万物の審判者(創世記18:25)であられます。神は人間に対し真実(詩篇89:1-52)な方、すなわち無限の誠実さをもって私たちを扱って下さるお方です。
 聖霊は神であられて、これらすべてをお持ちのお方です。
 神がどのようなお方であるかということに関する聖書の記述は、R.A.トーレーによって「聖書の教え」(76)に取り上げられています。
 人間の救拯に対して、三位の神は、それぞれ役割を分担されました。父なる神は御子の世に来られる準備をされました。そして、御子イエスを遣わされました。御子の十字架の贖いの完成は、父なる神の主導で行われました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、…彼は神の友と呼ばれたのです。」(ヤコブ2:21-23)アブラハムは、ひとり子を捧げる苦悩を味わいました。それによって、父なる神の心を知ったのです。ですから彼は神の友とよばれ、父なる神は「アブラハムの神」と呼ばれることをよしとされました。
 御子は、神の栄光を捨てて人間となり、人間の悩みと病を味わわれました。また、弟子を育成して福音宣教を委ねたのち、十字架の死をもって贖罪の業を完成されました。
 アブラハムが神の命令に従ってイサクを祭壇に捧げようとしたとき、イサクは従順に父に従いました。それによってイサクは、イエスの型となりました。イエスは「神の御姿であられる方なのに、…人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまでも従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(ピリピ2:6-8)ですから、イエスは、「イサクの神」と呼ばれることをよしとされました。
 イエスが、地において宣教されていたとき、こう解説されています。
「これは、イエスを信じる者が後になって受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまた注がれていなかったからである。」(ヨハネ7:39)
 今の私たちは、既に注がれた聖霊を知っているので、ここで解説されていることばの意味合いを理解することができます。聖霊が注がれることは、新しい時代が到来することを意味していました。
 「父なる神、子なる神、聖霊なる神」は、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(出エジプト3:6)と自ら呼ばれました。
 ですから、聖霊はヤコブの神です。
 聖霊は、イエスの上に注がれ、イエスの地上生涯の間、イエスの内に住み、イエスの心を心とされました。バプテスマのヨハネはそれを予見し、イエスを世に紹介する予言者となりました。彼はこう証言しました。「…御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」(ヨハネ1:32-34)ですからその職務のゆえにヨハネは、”最後の、最大の予言者”と認められました。(ルカ7:28)
 聖霊のイエスへの内住は、聖霊の人間への内住の準備でした。
 聖霊は、イエスがヨハネからバプテスマを受けた時から、イエスの内にあって、人間イエスを導かれました。イエスを荒野に導き(マタイ4:1、マルコ1:13、ルカ4:1)悪魔と対決させました。イエスは御霊の力で宣教されました。(ルカ4:14)イエスは、「わたしの上に主の御霊がおられる。主が貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカ4:18)との聖書を自分のこととされました。(ルカ4:21)イエスは「神の御霊」(マタイ12:28)「神の指(聖霊)」(ルカ11:20)によって業を行なわれました。イエスが、パリサイ人たちの心のかたくなさに、怒りかつ嘆いた時も聖霊は一緒におられました。(マルコ3:4-5)最後の晩餐で、イエスが弟子たちの足を洗われた時にも(ヨハネ13:3-5)、ゲッセマネにも(マタイ26:34-46)、ピラトに対してイエスが「わたしは真理のあかしをするために…世にきた」(ヨハネ18:37)と言われたときにも、十字架の上で母マリヤをヨハネに託した時(ヨハネ19:26-27)にも聖霊はイエスと共に居られました。十字架の最後は、「イエスは…頭をたれて、霊をお渡しになった。」(ヨハネ19:30)と記されています。
 そのようにして、イエスの心を心とした聖霊は、イエスが天に帰られた後、弟子達の中に助け主として来られ、弟子達の内にイエスの心を示し、聖霊に従う者にイエスの心を心とすることを実現されました。イエスの弟子達は、イエスの教えを受け、その模範を見、実地訓練を受け、さらに心の内にイエスの霊を頂いたのです。
 人間の聖化の問題は、この聖霊が弟子達の中に来られた時に初めて明かにされました。ですから、これは福音の奥義(コロサイ1:27)なのです。
 新しい時代の幕開けのため、初めて聖霊がおいでになったとき、イエスの弟子たちがそれを理解できるように、神は特異な現象を示されました。それがペンテコステ(使徒2:1-41)です。
 現在の時点でペンテコステの異象を求める人々もいますが、それは聖書にも、教会史にも、個人的宗教経験にも支持されません。「予言の賜物ならば廃れます。異言ならばやみます。」(コリントⅠ 13:8)と書いてあるとおりです。その理由は、異象そのものは福音経験として必須のものではないからです。必要なことは、聖霊が魂の内においでになり、その人に内住して下さることだけなのです。
 前にも述べたように、聖化、潔め、聖霊のバプテスマ、第二の転機、キリスト者の完全、全き愛、聖霊の満たし、などの言葉をもって表現されるこの経験は、同一の経験の諸方面を強調して述べているのですが、それを与えられたことは、異言などの外的な現象によって知るのではなく、直接魂(心)の中に聖霊が、「あなたは潔い。」と証詞してくださることによって知るのです。

(つづく)

文献:
(74)H・C・ヒューレット、主の栄光、岡田、山口訳、J.B.カリー発行、伝道出版社、1967
(75)ジェームズ・ストーカー、キリスト伝、岡村崇光訳、いのちのことば社、新装発行、1985
(76)R・A・トーレー、聖書の教え、森渓川訳、クリスチャン文書伝道団、(上)1957、(下)1958

(仙台聖泉キリスト教会員)