同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 結実の考察(第31回) —

野澤 睦雄

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」
(ヨハネ 3:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
(ヨハネ 15:8)

<第6章 聖霊と聖潔>

 今回は、人間の聖化・聖潔に聖霊がどのように関与しているか考察します。
イエスは十字架で贖罪を完成され、聖霊を派遣されました。そして教会の時代、聖霊が人間とともにおられる時代が到来し、現在にいたっています。人間の聖化、聖潔は聖霊がおいでになった目的そのものです。
聖霊が人間を聖化し、聖潔に歩ませて、神のまえに潔い傷のない教会を建てあげるのです。
以下に本文を掲載します。

・・・・・・・・
2.人間の聖化・聖潔と聖霊
 信者の中になお罪のあることを示されるのも聖霊です。罪と戦って破れ、悔い改めてはまた罪を犯す。そのような信仰生活の中で、「私はほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救いだしてくれるのでしょうか。」(ローマ7:24)と叫ばせるのは聖霊です。そして、「イエス・キリストにあるいのちの御霊の原理」(ローマ8:2)の解放に至らせるお方は聖霊です。
「わたしは…すべての国からあなたがたを集め、…あなたがたはすべての汚れから潔められる。…あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。…あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。わたしはあなたがたをすべての汚れから救い…」(エゼキエル36:24~29)とあるように、人間の内から不服従を聖絶されるお方は聖霊です。
 人間の心に、「神の愛が…注がれる」(ローマ5:5)ことを実現されるお方は聖霊です。「イエスを荒野に導かれた」(マタイ4:1~11)ように、人間を試練の場に導かれるのは聖霊です。人間を結実の場に導かれるのは聖霊です。そこで愛、すなわち「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたまみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益をもとめず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに心理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(コリントⅠ 13:4~7)の実を結ばせなさるのは聖霊です。
 「キリストが…教会をきよめて聖なるものとする」(エペソ5:26)ことを実行されるのは聖霊です。私たちを「キリストの妻」(エペソ5:29)とされるのは聖霊です。教会は福音の奥義なのです。(エペソ5:32)
 教会に集まった信者に「御霊の一致」(エペソ4:3)、「信仰の一致」(エペソ4:13)を与えるのは聖霊です。
「両者(異邦人とユダヤ人)を一つの体とし…ともに一つ御霊において、父のみもとに近づく」(エペソ2:11~22)ことは、福音の「奥義」(エペソ3:5)です。
 前章「救いの経綸」、においても述べましたが、聖化および聖潔とは何であるかその概要を聖霊の関与という視点からもう一度述べておきます。

・聖化
 G.A.ターナー(77)は、“「聖潔」は神に似たるものとしての状態をいうが、「聖化」とは「聖き」性質が神より他のものへ委譲されることをいう。”と解説しています。
 この経験において、人間に与えられるものというよりもむしろ人間から取り除かれるものは、「神の権威に対する不服従」だけなのです。神の御支配に全く服従すること、もっと詳しくは、人霊の内側まで神の権威に服すること、これが、神が人間に与えられる潔めの根底です。
 この経験において人間に与えられるものは、聖霊の内住です。聖霊は人間の「魂(心)」にその人の霊とともに住まわれます。聖霊は謙遜な方であって、決して人の支配者として君臨されません。いつもその人の霊が同意したことのみを行われます。人の心を支配する霊の姿がその人の心、さらには体を通して示されます。一方、サタンは人の心に住むとその人を支配しその人を奴隷とします。
 聖霊の内住と一緒に、神の言葉が、心の内に記されます。神のことばが人間のうちに記されるということの意味合いについては、少し説明を要します。神の戒め、律法が心に記されるとは、今まで知らなかった聖書のことばが、思い浮かぶというようなことではありません。聖書の言葉は、人間の世界において既に書かれた言葉として存在します。ですから、預言者に対して神が語られたようなことはもう要らないのです。そのような意味での必要に対しては、今の人間には聖書を読むことが求められているのです。
 神の戒め、律法が心に記されるとは、神の言葉に対する態度に現されます。真に救いに与ったキリスト者は、神のことば「聖書のことば」に対する畏れを持ちます。そして、自らの行いがその規範に合致しないとき、罪であることを意識します。救われていない人は、そのような恐れを持ちません。彼らは、聖書のことばを、人間の文学のように扱います。
 聖化は神の言葉に対する恐れを一層鋭くさせます。その神の国に対する知識が広がるからです。

・聖潔
 聖化された状態に保たれることが聖潔です。聖化された人に内住された聖霊が聖潔を保ってくださるのです。
 聖潔の人生を歩むためには、光の中を歩むことが求められます。「もし、神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネⅠ 1:7)
 もし私たちが、怠りなく歩むならば、前にも述べたとおり、S.A.キーン(78)の述べる「前進的潔め」を与えられるに至ります。

 

文献:
(77)G・A・ターナー、ウエスレー神学の中心問題、福音文書刊行会1959、p.11

(78)S・A・キーン、信仰の盈満、大江邦治訳、日本ウェスレー出版協会発行、イムマルエル綜合伝道団、1960、p.171

(仙台聖泉キリスト教会員)