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キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 結実の考察(第28回) —

野澤 睦雄

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」
(ヨハネ 3:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
(ヨハネ 15:8)

<第5章 救いの経綸>

第5章のふたつめのテーマである
 ・個人の救いの概観
を取り上げます。
前回全部載せることができなかった「2.節」の解説の後半部分を掲載します。
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2.個人の救いの概観

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・結実
 「実を結ぶ」とは、「品性を持つこと」と誤解されていることが多いようですが、ある人が実を結ぶという場合の「実」とは、「行為」であって、例えば、「愛の実を結ぶ」とは、「愛の行為を実行する」ことに他なりません。それは、ガラテヤ書5章を読むと分かります。そこに、「肉の行い」と「御霊の実」が同一の条件で対比できるものとして並べられています。ここで比較されていることは、肉すなわち古い人による人間の行いと聖霊による人間の行いです。また「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(ガラテヤ6:8)にも、蒔いたものによって異なる実が結ばれ、その実を刈り取ることが示されています。このみことばも「実」は人間によることを明らかにしています。
 品性と行為の関係は、「罪の性質」と「罪」の関係と同一です。良きサマリヤ人は、はじめから愛の品性を持っていました。しかし、強盗に襲われた人に出会って、愛の行為を行いました。その愛の行為が御霊の実です。御霊の実と呼ばれる理由は、その人間の行為が聖霊に導かれて行われるからです。
 ガラテヤ人への手紙に書いてある御霊の実ということばは、ギリシャ語の単数で表現されています。その理由についてジョン・ウェスレー(62)は、「『(肉の)働き』この働きは複数形が用いられている。それは、肉の働きは互いに相違し、互いに相容れないものであるからである。しかし、『御霊の実』という用語は単数形(22節)である。すべてが一つに結び合っているからである。…『愛』は他のすべてのものの根幹である。」と解説しています。御霊の実は、愛(コリントⅠ 13:4-8)という一つのものであって、その枝分かれが様々な姿をとるのであるという考えです。A・B・シンプソン(63)は、ガラテヤ人への手紙5章22節、コリント人への手紙第一13章4節以下の内容は、聖霊に満たされると、その心から湧き出してくるのだとしています。アンドリュー・マーレー(64)も同様の考えを示しています。これらの人々のほとんどは「聖霊の実とは何であるか。」ということの説明に終わっており、「実を結ぶとは何であるか。」ということを示していません。
 ヒルス(65)、アボット(66)などの論は、実そのものが人間に与えられてしまうとするものです。これらの人々の論は、その内容をよく検討してみると、聖霊の実が人間の心に注がれるという考え方であって、人間が聖霊によって実を結ぶという考え方ではありません。
 ドーマン(67)は、「御霊の実とは、聖霊の導きに従って生きる人の内に形成される『性格』である。」とします。性格は、人間の心の姿を示すものです。それは品性よりも広い領域の概念であって、品性は性格の一部です。この説も御霊の実自体は、神から与えられるものになります。またモンテギュー・グッドマン(68)は御霊の実は人間の、経験の領域、行為の領域、性格の領域において結ばれるとし、その内容としてパウロが解説したことばを区分して、これらの領域に当てはめています。しかし、実を結べという命令に応える、ということを考慮するとこのような当てはめかたは的はずれであると考えられます。性格は命令されても人間には応えることができない領域であるからです。
 人間がどのようにした時に聖霊の実を結んだと言えるのかということを考える必要があります。ガラテヤ人への手紙5章でパウロは御霊の実と述べたそのすぐ後に、沢山の枝分かれ、つまり「御霊の実は、愛、喜び、…」と書いています。その枝分かれのひとつひとつの下に、また具体的に実行された行為の小枝が記されべきです。個人の段階では、「私は、いつ、どこで、だれに、なぜ、どのような愛を行った。」となります。この「誰に」には、「神に」、「隣人に」、「自分自身に」の三つが入ることが記されています。
 詳訳聖書(69)では、前述のガラテヤ人への手紙5章22節が次のように訳されています。「しかし〈聖〉霊の果実〔すなわち聖霊の内住によって成し遂げられる行い〕は、愛、喜び〈喜悦〉、平和、忍耐〈平静な心、寛容〉、親切、善意〈慈善の心〉、忠実、〈柔和、謙そん〉優しさ、自制〈自己制御、節制〉です。」この訳の聖書も、聖霊の実とは行いであることを、そのまま述べています。
 品性は、聖霊によって与えられるものです。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ 5:5)しかし、御霊の実は与えられるものではありません。それは、与えられた自由意志をもって行われなければなりません。罪が人の行為であるように、御霊の実も人の行為でなければならないのです。
 「種は、神のことばです。…良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」(ルカ 8:11-15)ここに単に、行為、業、所行などと言わず、結実という理由があります。
 ホリス・F・アボット(70)は「実とは神が生み出されるものです。」と「実」を神に帰していますが、その意味合いを正しく把握する必要があります。実は内住された聖霊に導かれてその人が行う行いを指しているという意味で、その実の起源を神に帰してもよいのですが、「あなたの信仰があなたを救ったのです。」(ルカ 7:50)とイエスが言われたように、「実」は人間に帰されなければなりません。「実」が人間の行為であることは、バプテスマのヨハネが、「悔改めの実」としてこういうことをせよ、と人々に教えていることからも分かります。例えば、ヨハネは「下着を…分け与えなさい。…決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません。…金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。」と、「悔改めの実」と自分が述べたことの内容を説明しています。この「実」が人間に帰されることは、イエスの最後の晩餐の説教にも述べられています。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。…ならばそういう人は多くの実を結びます。…あなたがたが多くの実を結び…あなたがたが行って実を結び、そのあなたがた実が残るため…」(ヨハネ15:1-7)ヨハネの福音書のこの部分を読めば、父なる神が実を結ぶための環境を整えて下さること、実を結ぶためのいのちが御子イエス・キリストから供給されること、「実」は人間が結ぶものであって、その内容は「あなたがたが互いに愛し合うこと」すなわち行いであること、その最高のものは「友のためにいのちを捨てること」であることが分かります。そしてさらにやがて助け主、聖霊がおいでになり、その内容をあなたがたに分からせてくださるということをイエスは続けて述べておられます。
 この結実こそ、審判の日に、「良い忠実なしもべだ。」(マタイ 25:21)また、「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、…」(マタイ 25:35-36)と言って頂けるか否かを決定するものであって、人の側の功績として数えられるものです。
 聖霊の満たしは、一度切りではありません。「彼らがこう祈ると、…一同は聖霊に満たされ、みことばを大胆に語りだした。」(使徒 4:31)このとき集まっていた人々は、すでにペンテコステの日に聖霊を受けた人が多かったと解されます。S・A・キーン(71)が自分の経験として語る聖霊の盈満は、すべての人が受けることのできるものです。
 前項で述べたように、現在は教会の時代です。これらの経験すなわち求道者として福音に接すること、救われること、潔められること、御霊の実を結ぶことを、私たちは教会の関係の中で得ることができます。
 良い結果を得たことを示す「報酬、報い」、悪い結果を得たことを示す「刈り取り」自体を結実と表現することがありますがそれは誤りです。私たちが良いことを行った故に神がよい結果を与えられたことは「報われた」のであって、良い実を結んだのではありません。また悪しきことを行って悪い結果に至った場合、悪い実を結んだと言うのではなく、「刈り取りをした」と表現するのです。

・成長
 キリスト教においていう「成長」とは、ある人の「品性」、「知識」、「技量」などが、神の前にすぐれたものに変えられていくことを言います。神から預けられたタラントである聖霊によって注がれた「神の愛」(ローマ 5:5)を用いて、私たちが実を結ぶ、すなわち愛の行為を行うと、神はさらに2タラント、5タラントの愛を私たちの心に注いで下さるのです。それがすなわち成長です。ロイ.S.ニコルソン(72)は、成長を人間に帰していますが、人間に帰すべき部分は結実です。人間が善い実を実らせると、神がその人を成長させなさるのです。そして成長してさらに善い実を結ぶことができるのです。
 種は神の言葉、地は人の心です。「夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。地は人手によらず実をならせるもので、はじめに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。」(マルコ 4:26-29)「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために刈り込みをなさいます。」(ヨハネ 15:1-2)「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」(コリントⅠ 3:6)これらの聖言は、人間は自分で成長するのではなく、神が成長させなさることを示しています。
 聖潔は成長をもたらします。潔められずに成長を語る人々がいますが、潔めを受けること無く成長を求めるのは、極めて困難な要求なのです。イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを出、紅海を渡ったことは救いの経験の型と見なされています。それに続いたのは荒野の旅でした。確かに、イスラエルは荒野の旅をしながら国家を形成したのです。エジプトで奴隷であった人々は訓練されて、兵士となりました。しかし、霊的には、一向に前進せず、「イスラエルの家よ。あなたがたは荒野にいた四十年の間…、モロクの幕屋とロンパの神の星をかついでいた。…」(使徒 7:442-43)とステパノがアモス書を引用して指摘した通りでした。
 聖化の経験は、ヨシュアに率いられてヨルダン川を渡ったことがその型であると考えられています。カナンの地を領有することが聖潔であると考えると、ヨルダンを渡ることはその最初の一点に過ぎないことが分かります。

・後退することがあるという問題について
「聖書に描かれている個人の救いの生涯の展望」の図に、救われた後あるいは潔められた後に戻ることがあると記しました。罪の性質を除かれ聖霊に満たされて送る生涯になぜ後退することが起きるのでしょうか。これは潔めに反対する人々や潔めに無頓着で教えられても求めない人々には机上の空論のように見えるかもしれませんが、真摯に潔めを追求している人々にとっては、しばしば自らが経験し、あるいは兄弟たちのうちにそのような事例を見る現実の問題です。ジョン・ウェスレー(73)は、「キリスト者の完全」の中でこの問題が問われていることを取り上げ、「世には堕落することを不可能ならしむるほどの高い又強い程度の完全はない。」と述べています。完全であったアダムすら誘惑されて罪に陥ったのですから、ましてかつて罪の中にいた私たちはたとえ潔められたといっても、誘惑に負けることがあるのは当然です。
私たちが心しておかなければならないことは、結実の機会は後退の機会でもあるということです。摂理によって導かれ誰かを愛さなければならない状況に立ったとき、それはその人を寛容に扱うことであったり、金銭を与えることであったり、病む人への慰問であったり、一緒に過ごすことであったり、いさめることであったり、叱ることであったり、その内容は様々でしょうが、それを行うことができれば善い実を結んだと神にお褒めをいただけるでしょうし、それを行わなければ残念なもの、与えられたタラントを用いなかったものと判断されます。
 カナンの地は戦いによって勝ち取られました。カレブは「どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。」(ヨシュア記 14:12)と求めましたが、それは戦争によってとるものでした。私たちが実を結ぶということには、大なり小なりの戦いが含まれています。
エステルはユダヤ人の危機に臨んで死を覚悟して王にとりなしをしなければなりませんでした。モルデカイはその危機に秘められている神の前における意味合いを把握しており、「もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたもあなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであったかも知れない。」(エステル記 4:14)と述べています。私たちがたとえそのような大きなことでなくとも、果たさなければならないことを果たさないと霊的に後退します。はじめは「木の囲りを掘って、肥やしをやってみます」(ルカ 13:8)と扱っていただけるでしょう。しかし繰り返し後退をつづけると、「切り倒してください。」(ルカ 13:)と言われることになってしまいます。
「実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、・・」(ヨハネ15:2)
補足しますが、カルビン主義者は「ひとたび救いに与かってもその恵みから落ちることがある。」ということに対して、「神が備えてくださったものは、いつ私は救いから落ちるかと心配していなければならないというようなそんななさけない救いであるはずがない。救われたら決して恵みから漏れることはないのだ。」といって反対します。その反対論の前半は正論です。私たちが与えられる救いも潔めもそれをいつ失うかびくびくしているようなものではありません。「霊に燃え」(ローマ 12:10)「信仰の戦いを勇敢に戦い」(テモテⅠ 6:12)「今から義の冠が私を待っている」(テモテⅡ 4:8)のが私たちの信仰なのです。後退することがあるということは可能性としては存在しても、恵みによって生きる私たちは決して滅びることはありません。そしてまた後退してしまった人も「どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行い」(黙示 2:5)をするなら神は直ちに恵みに帰らせてくださるのです。

・肉体の死と復活および携挙
 やがてイエス・キリストの再臨がありますが、潔めに与った人は、死んでいた場合には復活し、生きている場合にはそのまま、いずれの場合にも空中で主にお会いします(テサロニケⅠ 4:13-7)。私たちの体は、主にお会いするときには、天の(霊の)体に変えられています(コリントⅠ 15:42-54)。それが「栄化」(コリントⅠ 15:35-43)です。そしてキリストとともに千年王国の王として生きます(黙示 20:20)。
 そこで、それぞれ結実の内容に応じて報いを受けます。イエスの約束には、天において受ける報いのほかに、地においても報いを受けることが述べられています。報いは結実ではありません。信仰に生きた結果このようになった、という結果は報いについてのべていることが多いものです。
 千年王国のあと、しばらくの間のサタンとその追従者との問題がありますが、やがて最後の審判があり、新天新地に天のエルサレムが下って、主と共にそこに住み、前項でも述べたように、讃美して永遠に至ります。
 救われたけれども潔めに与っていない人はどうなるのでしょうか。その場合、カルビン主義者達が主張するのと似ていて、死の直前が危機的瞬間となります。ある者は死の直前に潔められて死に主にお会いできるでしょう。しかし、潔められることなく死んだ人は主にお会いできないでしょう。「聖くなければ、だれも主を見ることができない」(ヘブル 12:14)からです。

・救いに与らなかった人々
 救いに与らなかった人々は、千年王国の後で復活し、審判の座に立たされます。そして、キリストを知らなかった人々は自分の罪のために、キリストを知っていて信じなかった人々はキリストを信じなかった理由で、滅びに定められます。

文献
(62)ジョン・ウェスレー、新約聖書註解(下)、松本、草間訳、新教出版社、一九七九、p.204
(63)A・B・シンプソン、新約における聖霊、佐藤邦之助訳、いのちのことば社、
再版、1960、p.169
(64)アンドリュウ・マーレー、キリストの御霊、沢村五郎訳、いのちのことば社、
初版第6刷、1987、p.273
(65)A・M・ヒルス、聖潔と力、葛原定市訳、日本ウェスレー出版協会発行、
イムマヌエル綜合伝道団、1962、p.128
(66)ホリス・F・アボット、「聖化」、日本ウェスレー出版協会、1998、
p.139
(67)D・H・ドーマン、もうひとりの助け主、羽鳥純二訳、いのちのことば社、1986、p.212
(68)モンテギュー・グッドマン、助け主、伝道出版社、1972、p.51
(69)抄訳聖書、抄訳聖書刊行会、いのちのことば社、1962、p.516
(70)ホリス・F・アボット、前掲(66)、p.140
(71)S・A・キーン、前掲(61)、p.159
(72)ロイ・S・ニコルソン、前掲(60)、p.117
(73)ジョン・ウェスレー、キリスト者の完全、赤澤元造訳、IGM&WMM出版協会、p.169

(仙台聖泉キリスト教会員)