同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく(26)—


「そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」(ヘブル 3:1)

 ヘブル人への手紙11章の記事を繰り返し取り上げています。神は聖書全体に、人が神に近づく道を記されましたが、ヘブル人への手紙には、大祭司イエスを通して神に近づく道が記されています。今回はヘブル人への手紙に書かれている大祭司について、皆さんと一緒に読みたいと思います。読むだけで、多くのことが分かると思います。
 9章に最初の礼拝所であった膜屋の概要と大祭司の任務が書かれています。膜屋はいつも祭司が入ることのできる区域と大祭司が年に一度だけ入る至聖所とに分かれていました。神は必要に応じて神に非常に近く歩んでいる預言者を立てられましたが、平常時にはこの至聖所に入った大祭司ほど神に近づく事のできたひとはいませんでした。任職の油を注がれた祭司でしたが、至聖所に入るとき改めて身を洗いきよめ、大祭司の衣装(栄光と美を表す聖なる装束、出エジプト記28章)を着け、犠牲の血をたずさえて行きました。
「また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられ、そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナの入った金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。」(ヘブル 9:1-4)
「第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。」(ヘブル 9:7)
 ヘブル人への手紙の記者は、旧約の大祭司の勤めについてこう付け加えます。
「その人たちは、天にあるものの写しと影とに仕えているのであって、それらはモーセが幕屋を建てようとしたとき、神から御告げを受けたとおりのものです。神はこう言われたのです。「よく注意しなさい。山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい。」」(ヘブル 8:5)
「この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。」(ヘブル 9:9-10)
「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。」 (ヘブル 10:1) 
この「律法」ということばは、旧約聖書の全体を指しています。旧約聖書に書かれていることはすべて、イエス・キリストとその働きを私たちに教えるための影絵だというのですが、神の教え方は以下のようなものです。
以前取り上げました例ですが、ダビデにその内にある罪を示すためにヘテ人ウリヤが死にました。
アハブに「わたしが聖絶しようとした者をあなたが逃がしたから、あなたのいのちは彼のいのちの代わりとなり、あなたの民は彼の民の代わりとなる。」(列王記Ⅰ 20:42)と宣告するために、預言者が一人死にました。
この世の王に仕えるのと、神に仕えるのとどう違うか分からせるために、イスラエルの民にエジプトで奴隷生活をさせなさったのです。
 神は、旧約の人々の実際の苦悩の生活や、死を通して私たちを教えているのです。 ついでに述べておきますが、エジプトはこの世、それはサタンの王国であってそこから救い出されて、神に仕えて生きる生活に導かれると言われていますが、それを私たちに教えるために一体何人の赤子がナイルに投げ込まれたのでしょうか?
律法は本物を示す影ですと言いましても、そのくらい重みがあります。
大祭司について、ヘブル人への手紙に書かれている箇所を列記しましょう。
(ヘブル 2:17) 
(ヘブル 3:1)  (ヘブル 4:14-15)
(ヘブル 5:1-2)
(ヘブル 5:4-5)
(ヘブル 5:8-10)
(ヘブル 6:17-20)
(ヘブル 8:1-3)
(ヘブル 9:7,11-12,25-26)
(ヘブル 13:11-13)

 もっと説明をつけるといいのですが、これ以上長くできません。
ヘブル人への手紙が大祭司イエスを解説していることをご理解いただければ、これを開いたとき、その深みに入れることと思います。
 私たちはノアが信仰によって家族を救ったように、自分の家族や愛する人々を救わなければなりません。そのために神に近づくとき、大祭司イエスからその使命に任命されたものとして、神の前に立ちます。
自分と愛するものたち全部のために、旧約の大祭司の衣装に示されている栄光と美の装束を・・霊的に・・まとい、「主への聖なるもの」という徽章を額につけて、神の前に立ちたいと思います。

「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」 (ヘブル 4:16)