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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—68

 エフライムの山地の出で、その名をミカという人がいた。
 彼は母に言った。「あなたが、銀千百枚を盗まれたとき、のろって言われたことが、私の耳に入りました。実は、私がその銀を持っています。私がそれを盗んだのです。」すると、母は言った。「主が私の息子を祝福されますように。」
(士師記17:1~2)

 今月も変わらず聖書を学ぶ会が開かれ、豊かな学びの時が与えれましたことを感謝いたしました。今回も、ここ何回か続いている士師記の学びをしました。今月は、17章の学びでした。
 まず最初に、私の母である初実姉が、2節の「主が私の息子を祝福されますように。」とありますが、これはどういったことからこのように言っているのですか?と質問しました。確かに盗んだ者を呪うように言っていたのに、最終的には祝福してくださいと言っているのは矛盾が生じているようにも思えますから疑問を抱いてもおかしくありません。しかし、もしかしたらかく言う私も親の財布からお金を盗んだことがあるので、私自身と重ねたことで、目にとまったのかもしれません。どちらかはわかりませんが、山本嘉納牧師は、ゆるすことは、何もなかったこととして終わりにするのではなく、きちんと罰を与えることで処理をしなければならないということを語っておられました。
 私自身、親の財布からお金を盗んだことがバレた時、お尻を叩かれました。叩いている父親も手がパンパンに腫れ上がり、叩けなくなり、しまいにはホウキで叩きました。これまでで一番痛さに涙し、また叫びました。しかし、お尻の痛みよりも、私の手をおさえていた母が涙していたことが私にとってはもっと痛かったです。あの時の母の顔は今でも鮮明に覚えています。そして私は同時に、自分の罪の大きさを知りました。
 山本牧師も親の罰が厳しかったこと、そしてそのことによって罪を認識し神を畏れたことを語っておられました。「私の息子を祝福してください。」この矛盾のような母親の祈りは、決して安易なものではなく、子を罰することの苦しみを伴う道を選択したことを意味するということを学びました。
 幸いなことに、私はこうしてあゆんできた中でも、神の一方的な哀れみによる救いをえました。このことを覚え改めて感謝致しました。
 また、この後行われた質問を通して、神が与えてくださった赦しに対し、100デナリも赦せない者になるのではなく、自分自身も赦し、神にお返ししていくべきであることも語られました。私はこれから一生、神に仕えていきます。

(執筆担当:森田 輝 仙台聖泉キリスト教会会員)