同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 結実の考察(第34回) —

野澤 睦雄

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」
(ヨハネ 3:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
(ヨハネ 15:8)

<第7章 教会と聖潔>

教会と聖潔の関係を考察するに当たって、まず聖書は教会についてどのように記しているのかということを拾い上げています。
 
前回引用した部分にある

「あなたがたは、永遠のいのちを得ようとおもって、(旧約)聖書を調べています。しかしその聖書は、『わたし(イエス・キリスト)』について述べているのです。」とのイエスの言葉を思い出さないでしょうか。
新約の時代には、「あなたがたは、聖潔を得ようと思って、(新約)聖書を調べています。しかし、その聖書は、『わたし(キリスト)の体である教会』について述べているのです。」

ということをこころにとめておいていただきたいと思います。

旧約聖書は、受肉されるイエスを迎える備えでした。
新約聖書は、再臨されるイエスを迎える備えを、
「聖く傷のないものとなった教会」となることによってするのです。

 以下に本文の前回の続きを引用します。

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 テサロニケ教会の信者たちはパウロが神に感謝できるような、良い信仰の持ち主たちでした。「あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範となったのです。」(テサロニケⅠ 1:7)「あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。」(テサロニケⅠ 2:20) この教会の人々にパウロは、「神のみこころはあなたがたが聖くなることです。あなたがたは不品行を避け、…。神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです。」(テサロニケⅠ 4:3-7)と念を押しました。
 この教会で議論されていたことは、イエス・キリストの再臨の時、先に死んだ人々はどうなるのかということでした。パウロはその問いに答えて再臨の時はどうなるのかを解説しました。(テサロニケⅠ 4:13-18)再臨がいつ起きるのかは分からないけれども、備えのあるあなたがたには、「その日が、盗人のようにあなたがたをおそうことはありません。」(テサロニケⅠ 5:4)しかし、「目をさまして、慎み深くしていましょう。」(テサロニケⅠ 5:6)以下このように生きましょう、という勧めと、祈りと信仰の言葉が述べられます。すなわち、「平和の神ご自身が、あなた方を全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」(テサロニケⅠ 5:23-24)
 テサロニケ人への手紙第二が書かれた時には、イエス・キリストの再臨がもっと早くあると思っていたのに再臨はなかなか訪れず、迫害と艱難があったため、疑問を持った人々がいたように見えます。パウロは、神はいずれ正しい裁きをされること、艱難に耐えて信仰を保つ者に報いたもうことを述べています。また再臨はもう既にあったのだ、と言っている人々もいました。それに対して「さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再びこられることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いがあります。…主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐ落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。…まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。…」(テサロニケⅡ 2:1-3)と教え、以降に御再臨の前のサタンの活動について述べています。「しかし、神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったのです。」(テサロニケⅡ 2:13)から「兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。」(テサロニケⅡ 2:15)「締まりのない歩み方を」(テサロニケⅡ 3:6)しないで、労働と良い業に励み、「自分で得たパンを食べ」(テサロニケⅡ 3:12)主のおいでを待ちなさい、とパウロは指示しました。
 テモテへの手紙とテトスへの手紙は、主の働き人は、どのような心がけで生きていかなければいけないか、神の家である教会を、どのように牧会するのかを、「たとい私(パウロ)が(そちらに行くのが)おそくなった場合でも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくため」(テモテⅠ 3:15)書かれたものであって、すべて教会のことについてであると言えます。
 ピレモンへの手紙は、「キリスト・イエスの囚人であるパウロ、および兄弟テモテから、私たちの愛する同労者ピレモンへ。…獄中で生んだわが子オネシモのことをあなたにお願いします。」(ピレモン 1、10)とあるように私信ですが、教会の中で人をどのように扱わなければならないかということに関する具体例となっています。
 ヘブル人への手紙には、御子に関する解説がなされ、「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、わたくしたちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家(教会)をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。…ある人々のように、いっしょに集まるのやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日(再臨)が近づいているの見て、ますますそうしようではありませんか。」(ヘブル 10:19-25)と、この偉大な御子は、教会の祭司であることが示されています。
 ヤコブの手紙は、国外に散っている十二の部族(イスエラエル人)へあてて書かれたものですが、その中心的な論題は「信仰」と「行い」がどういう関係にあるかと言うことでした。
 「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」(ヤコブ 2:23)ということの説明に、パウロはローマ人への手紙において、「星を数え」(創世記 15:5)ているアブラハムを取り上げています。(ローマ 4:1-25)しかし、ヤコブは、アブラハムがその子「イサクをささげた」(創世記 22:1-9)ことを引用し、その結果として、「アブラハムは神を信じ…という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。」(ヤコブ 2:23)と解説しています。前にも述べたように、信仰とは行いそのものなのです。その行いによって示す信仰を教会の中でこのように現しなさい、と言う勧めが、ヤコブの手紙の後半に記されています。「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、…祈ってもらいなさい。…互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」(ヤコブ 5:14-16)行いをもって兄弟を愛し、ともにとりなすことそれが教会の働きに多いに力を加えるものであることが強調されています。
 ペテロの手紙では、あなたがたは「たましいの救いを得ている」(ペテロⅠ 1:9)のですから、「あなたがたを召して下さった聖なる方にならって、あなた方自身も…聖なるものとされなさい。」(ペテロⅠ 1:15)と言うことを基本に、教会の中でどのように生きていくべきか、次々と勧めがなされています。「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」(ペテロⅠ 1:22)
「霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として…神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」(ペテロⅠ 2:5)
「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。…以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり…愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。…」(ペテロⅠ 2:9-11)そして、この社会で、どう生きていくべきかが取り上げられています。「妻たちよ。自分の夫に従いなさい。」(ペテロⅠ 3:1)と勧め、その理由をあげています。長老達には、「あなたがた(長老たち)は、…群の模範となりなさい。」(ペテロⅠ 5:3)、若い人たちには、「若い人たちよ。長老たちに従いなさい。…」(ペテロⅠ 5:5)と。
 ペテロの手紙第二には、「今私がこの第二の手紙をあなた方に書き送るのは、これらの手紙により、あなたがたの記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためです。」(ペテロⅡ 3:1)とその書かれた目的が記されています。そして、こう述べています。「その(イエスの)栄光と徳によって、すばらしい約束が私たちに与えられました。…あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神の御性質にあずかる者となるためです。こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(ペテロⅡ 1:5-6)この諸徳を身につけるなら、「実を結ばない者になることはありません。」(ペテロⅡ 1:8)ペテロは直接教会の中でこうせよとは言っていませんが、この実は隣人との関係で結ばれるものであって、教会はその場となるものです。
 ヨハネの手紙でヨハネは、「もし神が光りの中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネⅠ 1:7)と述べています。私たちは、使徒信条を自分たちの信仰告白として暗唱し、「われは…聖徒の交わり…を信ず。」といいますが、ヨハネは「光の中を歩む」と、「交わり」が保たれ、その上にたって「御子イエスの血が私たちを潔め」ると言っています。
「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(ヨハネⅠ 3:16)兄弟は教会の中にいます。その愛は、具体的であることが求められます。「ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実を持って愛そうではありませんか。」(ヨハネⅠ 3:18)当時の誤った教えとの戦いがこの手紙に書かれていますが、それに触れることはここでは割愛します。
 ヨハネの手紙第二は、「選ばれた婦人とその子どもたちへ」(ヨハネⅡ 1)書かれた手紙です。「あなたの子どもたちの中に、…真理のうちを歩んでいる人たちがあるのを知って、私は非常に喜んでいます。」
 ヨハネの手紙第三はガイオという人にあてた手紙です。このガイオという人が、次のように評価されている中に教会の姿があります。「旅をしているあの兄弟達のために行っているいろいろのことは、真実な行ないです。彼らは教会の集まりであなたの愛についてあかしし…」(ヨハネⅢ 5-6)
 ユダの手紙には、教会ということばが使われていません。しかし、この手紙は教会に宛てたものであることは文面から明かです。「…ひそかに忍び込んできた…」(ユダ 4)とか、「…あなたがたの愛餐の…」(ユダ 12)というようなことばがそれを示しています。「愛する人々よ。あなたがたは、自分が持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」(ユダ 20-21)
 ヨハネの黙示録は、「これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、…これをしもべヨハネにお告げになった。」(黙示 1:1)ものであって、「アジヤにある七つの教会」(黙示 1:4)宛に書かれました。預言の内容には触れませんが、「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」との命令に私たちも従わなければなりません。
 以上、長々と新約聖書について述べたのは、「新約聖書は、キリストの体である教会について記している。」ことを信じない人々のために、確かに新約聖書はキリストの体である教会について記していること、キリストが「聖く傷のないものとなった栄光の教会を、…立たせる」(エペソ 5:27)ことを、私たちを用いてなされること、すなわち「教会の建設」が私たちの信仰生活の中心テーマであることを示すためです。
 このように神は教会を示しておられるのですから、教会を探求することこそ、私たちが潔めを得、結実と成長に与ることのできる唯一の道です。
 そこで、本章では教会をテーマとして取り上げ、教会について次の諸点を考察します。
 ・私たちが取り組まなければならない教会
 ・教会の関係…使命、任命、神から委ねられた人、師と弟子、夫婦、親子
 ・教会の関係の中で何が造られるのか…素地、心の能力、資質
 ・その方法…人格の交流
 ・教会と結実

(仙台聖泉キリスト教会員)