聖書研究
— 結実の考察(第35回) —
野澤 睦雄
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」
(ヨハネ 3:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
(ヨハネ 15:8)
<第7章 教会と聖潔>
教会と聖潔の関係を考察するに当たって、まず聖書は教会についてどのように記しているのかということを拾い上げています。
前二回にわたって引用した部分は、
・・ 以上、長々と新約聖書について述べたのは、「新約聖書は、キリストの体である教会について記している。」ことを信じない人々のために、確かに新約聖書はキリストの体である教会について記していること、キリストが「聖く傷のないものとなった栄光の教会を、…立たせる」(エペソ 5:27)ことを、私たちを用いてなされること、すなわち「教会の建設」が私たちの信仰生活の中心テーマであることを示すためです。・・
ということが目的でした。
以上はこの章の前文であって、今回から本文に進みます。
7.1) 私たちが取り組まなければならない教会
教会をどのようなものと考えるか、つまりどのような教会観を持っているかは、私たちの信仰生活を大きく左右すると言っても過言ではありません。教会に何を期待し、教会に対して何を献げ、教会のためにどのように働くかは、自分の持っている教会観に支配されます。
私たちが、自らの救い、聖潔、信仰の結実、成長といったことを、実現する場が教会です。ですからそのことを考えると、私たちが取り組むべき教会の範囲は自ずと定まってきます。それは、自分の所属する地域教会とその働きの範囲にある教会ということであって、教会論を網羅するような働きを考える必要はなく、「聖なる公同の教会」というようなことは、あまり意識する必要はありません。なぜなら、自分の所属する教会を神の喜びなさるようにしていくことこそが、聖なる公同の教会を建て上げることなのです。
教会をよく観察してみると、実に色々な人々がいることが分かります。教会の歴史、集まっている人の人数や各自の信仰経験、また、その職業や教会の外の世界における社会的内容も教会に影響を与えていることが見られます。何十年も教会に来ている人もいれば、昨今教会に加わった人や求道中の人もいます。男も女もいます。老人もいれば、壮年の人、青年、少年、幼児や赤ちゃんもいます。健康な人と病気の人、富んでいる人と貧しい人、この世の生活で地位のある人ない人、この世の学問をした人としなかった人、またこのような視点では線引きができない中間の人もいます。
その中で注目すべきことは、ある人は教会の中でよく教会の重荷を担いますが、ある人は教会の重荷となっていること、それがその時と状況によって担う人と担われる人とが入れ替わったりしますが、信仰歴が長い人が重荷を担う側の人になっているとは限らないことです。
教会は宗教の場であって、そこに集まっている人々の品性、人間性といったものが問われる場なのですから、いつの間にか、この人はしっかり神を信じている信仰に満たされた人であるとか、この人は何と愛情豊かな人かとか、側にいる人を楽しくさせる人とか、分かってきます。また一方、この人は吝嗇(けち)だ、この人は偉くなってしまっている(高慢だ)、この人はこの世の楽しみを好むとかといったことも分かってくるものです。また「どうしてこのようなことを理解しないのだろうか」と、首をかしげたくなるようなこともあります。他の人のことが分かるように、自分のことも他の人が分かっているのです。周囲の人を恐れるのではなく、神を畏れて自らの道を真っ直ぐにすることがそこに求められています。
いくつかの教会が集まって教団を形成し、その中の一教会として自分の所属する教会があることが多いわけですが、一つの教会には、その教会を牧会する牧師がいて、そこに一般の信徒が集まっている形をとっていることがほとんどでしよう。新約聖書を開いてみると、聖霊が降臨されて教会が造られた後、かなり早い段階からこの教会のありかたになったことが分かります。従って、神もこの組織形態をよしとされているといえます。そして、教会全体に最も大きな影響を与えているのは、牧師の如何です。
教会の中において、一人の男と一人の女が夫婦となり、二人の間に生まれる子供たちが加えられて家庭が形成されています。家庭は教会の中の一単位です。勿論日本では、夫婦の一方のみが救われて教会に加わっている場合も沢山あります。
同時にまた、教会全体が神の家族である、とされています。私たちは不信者の親族にまさって、主にある兄弟姉妹と結ばれていることが求められています。
教会の中の人であるからといって、何でも意見をいってよいのではありませんし、何か困ったことがあるからといって、誰でもかまわず手助けをしようと乗り込んでいってよいのではありません。そこに、神が特定の人を導かれて誰かを助けさせたり、誰かの訓練の場を造られたりなさるのです。そのために、次の“教会の関係”ということを理解しておかなければなりません。