同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく(27)—


「わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか。──主の御告げ──」(エレミヤ書 30:21)

 冒頭に掲げたこのみことばから、ただちに読み取れることは、神がご自分に近づく人を望んでおられるということです。
 神に近づくこと自体の幸い、神がご自分に近づく人に恵みを下さること、私たちが神に近づく道を備えておられることなどを中心に述べてきました。「そのままの姿で神のもとにいきましょう。神が恵みをくださるから。」というスタンスです。これは「貰う」ことが動機だと言えるでしょう。
 冒頭のみことばが示しているもう一つの内容は、神に近づくために「費えを払う」ということです。しかもその費えは人間にとって最も大事なもの「いのち」です。

 ダビデがサウルに追われて、逃亡生活をしていたとき、彼のそばにいた人々のなかにダビデの三勇士と呼ばれたひとたちがいました。
「三十人のうちのこの三人は、岩場にあるアドラムのほら穴にいるダビデのところに下って来た。ペリシテ人の陣営は、レファイムの谷に張られていた。
そのとき、ダビデは要害におり、ペリシテ人の守備隊長はそのとき、ベツレヘムにいた。
ダビデはしきりに望んで言った。「だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」
すると、この三人は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。
ダビデはそれを飲もうとはせず、それを注いで主にささげて、言った。 「そんなことをするなど、わが神の御前に、絶対にできません。これらいのちをかけた人たちの血が、私に飲めましょうか。彼らはいのちをかけてこれを運んで来たのです。」彼は、それを飲もうとはしなかった。三勇士は、このようなことをしたのである。」
(歴代誌Ⅰ 11:15-19)

ダビデが故郷の「ベツレヘムの井戸の水が飲みたいなあ」と思ったことを口にしたのですが、そこは敵ペリシテの陣地になっていたのでした。しかしこの三人は、ダビデにその水を飲ませたいと思って、いのちをかけて、それを汲んできたのです。
ダビデが部下たちに愛されていたこと、ダビデの部下たちはいのちをかけて彼を愛したことが表されています。彼らはダビデを愛することを喜びとしたことをうかがい知ることができます。

 私たちは神が「こうして欲しいなあ」と思われていることを察知できるでしょうか。
そのためいのちをかけて行動することができるでしょうか。
いのちをかけてと表現するとイエス・キリストのために迫害にあって死んだ、初代のクリスチャンたちのような目に遭うことを想像するでしょう。
実際は、神が「こうして欲しいなあ」と望まれることは、私たちの隣人のために、ほんの小さな費えを払うことがほとんどでしょう。
 神の教会のために、先生や兄姉たちのために献げることが私たちの喜びでありますように。
集会にすわる時間を獲得することもそのひとつでしょう。先生方は神から教会を預かっていると言えます。
先生が「集会に出て欲しいなあ」と思われるならその背後にあって神もそう思っておられるのです。同じような視点で、自分の身の回りをよく眺めるなら神の望んでおられることをもっと知ることができるでしょう。
 そこに私たちの人生を費やす、それを喜びとできますように。