同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 揺るがされない人生 —

ooi-san

山田 大



「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」(詩篇 46:10)


以前、三浦綾子読書会に参加していた頃、小説に取り上げられるような信仰者の生涯を思う時に、私の身近にも小説の題材にこそされなくとも、同じように激動のクリスチャン生涯を送られ、エピソードに満ちた証しをされる方々がたくさんおられることを思い、それに引き替え大きな動きの少ない、特段物語になるような事柄もほとんどないような自らの生涯のつまらなさを嘆いたことがありました。


今年、私たちの教会の礼拝では、アブラハムの生涯を辿りながらメッセージが取り次がれていますが、その中でイサクについて触れられたことがありました。イサクは父親アブラハムや息子ヤコブに比べると聖書中の記述は極端に少なく、生涯のほんの一部しか語られていませんが、聖書で語られていない部分は決して神から離れていたり、聖書に記述すべき信仰的な内容ではなかった、ということではなく、神の御言葉に対し、偏らない解釈がなされ、整えられ、準備がなされ、大きく揺るがされることのない生活を送っていたと考えられる、という意味のことが語られていました。


カレブという人物も、カデシュ・バルネアで部族の代表としてカナンの地を探る斥候として遣わされた記述の後、次に登場するのは45年後、85歳になってからです。その間カレブは神との関わりのない人生を送っていたのでしょうか。否、決してそうではなく、日々淡々とした中でも決して神から離れず、一族の長として模範的な信仰者生涯を送っていたに違いありません。それが45年後の彼の姿に表れています。

イエス・キリストご自身も、出生時の一連の出来事が聖書に語られ、次は12歳の時、両親とともにエルサレムに上られた過ぎ越しの祭りの出来事、そしてその次はいわゆる公生涯と呼ばれる30歳頃からの数年の事柄です。その間も豊かな神とのお交わりの日々があったに違いありませんが、聖書は一つ一つを記してはいません。

信仰者の生涯の価値とは、出来事の多さや大きさだけが表わすものではなく、いかに揺るがされず神とともに淡々と歩み続けるか、一つ一つ注意深く備えをなし、確実な歩みを積み重ねていけるか、そのようなところにあることを思わせていただいております。

3年前、2人の子供が同じ日に救いの恵みに与かりました。また、来春下の子が就職し、2人とも社会人となります。あともう少しかな、と思わされます。かなりの部分を妻に負うところではありますが、一つのことを成し遂げつつある感があります。  子供たちが小さい頃、よく宿題を手伝いました。それはマイナスに働く危険もあります。しかし子供たちが困っている時には助けることを優先しました。約束はどんな小さなことでも必ず守りました。勿論足りないところの非常に多い父親ですし、過保護になり、自立心を削ぐ危険はありましたが、お父さんは絶対に信頼を裏切らない、という信頼関係を優先しました。それは小さなことの積み重ねでした。仕事の忙しい時期もありましたが、出来るだけ子供たちのそばにいるようにしました。特に娘は父親にはわかりにくい、難しい存在ですので、叱ろうとする時にどうしたら逆効果にならないか、考えました。それは多分、信頼関係だろう、と見当をつけて関わっていきました。また、教会を最優先にし、聖日を守る等の価値観が揺らがないということも大切にしました。思春期の頃、娘を叱ることはとても勇気が要りました。しかし、牧師先生が娘さんとの関わりを語っておられる内容を参考に、娘の近くに居ようとする時、豊かな助けがありました。やがて、子供たちは神の愛を知る者となりました。

特段特筆すべきことも無く過ぎていく淡々とした日々の中の、小さな隣人との交流の中で、神の愛を表し、その人がどうしたら信仰者として生きて生き易くなるか、どうしたら神に従うための障害を取り除いてあげられるか、ほんの小さなこと、自分のすぐそばにいる隣人に対し、その人の信仰のために小さくとも助けになること、を考える、そして実行してみる、そのような中で、不思議と小さな行動の中に思いもよらなかった結果があり、そこに神がおられることを実感します。小さな事柄の中に大きな神の御姿を見させていただきながら、平時の中に小さな大切な瞬間が多くあり、それを一つ一つ大切にしたことの故に、有事が、ドラマティックではなくとも、確かに自分と愛する者にとって信仰で乗り越えたことであることを今、実感しています。



(仙台聖泉キリスト教会会員)