同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく(24)—

「土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。」(創世記 3:18)
「土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。 しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。」(ヘブル 6:7-8)



 「このままの姿で」という讃美歌が、教会の各種集会でよく歌われます。
この歌は「大切な面を」示しています。
その大切な面とは、自分の実態を認め、それを自分が受け入れている、ということです。  私たちの教会の礼拝説教で、「私たちは神と人の前にありのままの姿でなければいけません。自分を自分と違うものに見せようと思ってはいけません。自分を偽ったり、過大に見せたり、過小に見せたりしてはいけません。」ことばは違ってもそのような意味のことが繰り返し語られています。また、「自分の実績を改竄しては・・粉飾しては・・いけません。自分がなしえたことも成しえたとおりでなければいけません。
神は真実であって、ひとが真実であることを喜ばれ、真実であることを要求されます。」と。 イエスがパリサイ人たちを嫌われたのはまさにその点でした。それで「偽善者!、へび!、まむし!」と彼らをいったのです。私たちも、自分でない人物を演じているなら、同じ非難をイエスから受けることになります。
バラやスミレとよばれるのに相応しい人がこの歌を讃美しているのならハレルヤと和すでしょう。
 しかし、自分の姿がイバラやアザミである人は、変えていただく必要があります。 その人は、「このままの姿で生きていきます。」とはいっていられないはずです。  変わるということは自分でできることでなく、神に変えていただくことが必要ですが、そのためにはまず神に近づかなければなりません。
 神に近づくひとは、ありのままの姿で神の前にでなければいけません。「今私はイバラだから神の前にでられません。私はアザミだから神の前にでられません。」といってはいけないのです。 イバラであっても、アザミであっても「そのままの姿で」神の前に行くことが大切です。 そして、「私はイバラです。」「私はアザミです。」とそれを自分で受け入れていなければなりません。
イバラとアザミで表現していますが、それは私たちの実際の品性にかかわる事柄であって、こういうことについて、「私の取った行動はこうでした。愛に、謙遜に、柔和に、・・欠けておりました。」「・・高慢でした。自惚れておりました。」「・・なすべきことをしておりませんでした。」「・・かたくなな者、うなじのこわい者でした。」「・・人をねたむものでした。」
 自分で自分を客観的に見ることをしないとそれが分かりません。また人のことばに注意を払うことも必要でしょう。神が示してくださることに気付くことも求められます。
 パジェット・ウィルクスは著書「救霊の動力」に人が救われる大切な道として、真実に神の前に出ることを強調し、以下のような実例を紹介しています。


英国の婦人の証しです。
「・・わたしが回心したときわたしのうちに悔い改めはなかった。ただ、ひとりで自分の部屋にひざまづいたその日のことをよく記憶している。救われたいとは思っていなかった。この世をいっぱい求めていた。まだ若かったので、この世が実に美しく見えた。神はわたしを、どちらかを選ばなければならないところに導かれたが、わたしはそのとき、世を選んだ。または臨終の床において救われようと願った。ひざまづいてだれもささげたことがないような貧弱な祈りをした。すなわち「わたしは救われたくありません」と神に告げたのだ。しかしそこから立ち上がる前に、わたしのために十字架の上に死んでくださった救い主は、わたしに悔い改めの心を与え初めてくださった。」
(鎌野善三訳、関西聖書神学校発行、いのちのことば社、2016、p.173)
これは極端な例ですが、神のまえに真実に立つことを、神が喜ばれる証拠です。
そして神に自分を変えていただく糸口がここに示されているのです。
そして、イバラもバラに変えていただくことができます。