同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく(19)—

「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」(ヨハネ 15:15)

 「友」ということを考察しましょう。
 ダビデの政府には、他では聞いたことのない「王の友」という職位がありました。これは、軍の統率者である将軍や、議官、今で言えば総理大臣、財務大臣、農林大臣と呼べる職位、祭司、預言者、と並べることができる、れっきとした職位でした。あまり知られていませんが、ソロモンも王位についたときそれを踏襲して、その政府に「王の友」という職位を残しました。
「ナタンの子アザルヤは政務長官。ナタンの子ザブデは祭司で、王の友。」(列王記Ⅰ 4:5)
 アブラハムについては、こう書かれています。
「そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。」(ヤコブ 2:23)
 「王の友」の次に「神の友」を考えましょう。
 アブラハムが神を信じたので、彼は神の友と呼ばれたとのみ聖書を読んでいては、読みの深さが足りません。ヤコブの解説しているアブラハムが神を信じたその内容を創世記と一緒に考察する必要があります。
「そして、(神は)彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」
彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記 15:5-6)
 このときアブラハムはまだ自分の子を見ていませんでしたが、神を信じました。それで神は彼を「義と認められ」ました。
ヤコブが記したのは、アブラハムがイサクを捧げるという信仰の試験に合格して、神から「あなたは本当に私を信じている」と認められた点についてです。
 アブラハムがこのとき、神がその一人子をお捧げになるということをどの程度知っていたのかは分かりません。しかし、今の私たちは、紛れもなく彼が父なる神と同じ苦悩を味わい、父なる神と同じこころを持ったということです。ですから、アブラハムが神の友と呼ばれることを不思議に思う必要はありません。
 信仰の人々はたくさんいました。しかし「神の友」と呼ばれたのはアブラハムただ一人だけです。彼が神のこころを知ったからです。
 同じように「王の友」は王のこころを理解していなければならなかったでしょう。
 私(わたくし)たちは、イエス・キリストを信じました。それで義と認められ(罪を赦していただき)ました。新生のいのちをいただき(新しく生まれ)ました。
その結果、信仰の人々の仲間に入れていただいたのです。それでさらに、アブラハムが神の友と呼ばれたような意味で、イエスの友と呼ばれるにはどうしたらよいでしょうか。
 人は誰かに近づくとその人のこころを知ります。遠く離れていては、何を知っていてもその人のこころの機微にはとどきません。
 聖書中に「友」ということばを探してみると、実にたくさんでてきます。イスカリオテのユダもイエスから「友よ」とよばれています。
 イエスの例え話にも、真夜中にパンを求めた友人に「友」だからといってパンは出してくれない・・とあります。
 中風を癒やしていただいた4人の人に運ばれてきて、屋根からつり下ろされてイエスの前に行った人も、「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言われました。
 今議論している話題に直結するみことばは、
「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。」(ヨハネ 15:14)
「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ 16:24)
 父なる神がその一人子をお捧げになるそのこころを思うのと同じように、イエスのこころを考えましょう。
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」(ピリピ 2:6-8)
パウロはこのことばの前に、こう付け加えています。
「汝らキリスト・イエスの心を(汝らの)心とせよ。」(ピリピ 2:5 文語訳)
 イエスのみ足跡に歩むとは、「自分の十字架を負って、イエスに従う」ことに他なりません。それを実行するなら、アブラハムが「神の友」と呼ばれたように、「イエスの友」と呼んでいただけることでしょう。

 もう一つ心配があります。「私の隣人とは、だれのことですか。」(ルカ 10:29)といった律法学者のように、「私の十字架とは何ですか」と言うことです。
イエスと弟子たち、それに続く多くの信仰のひとびとによって模範が残されましたから、
「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ 10:37)
 その道を歩んで、私たちも神に近づくものでありましょう。