同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— こころを変えていただくこと —

hatumi-san

森田 初実

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」 (ヨハネⅠ 5:14)

  今年、私が信じて歩み出したみことばです。
 先日、今年の教会の年間計画が話され、その為に皆で祈り合う時がもられました。今年も12月にメサイヤ礼拝が行われる予定になっています。昨年のメサイヤ礼拝が終わったばかりで、今年はまだまだ先のことですが、私の思いの中にはもう既にあります。私はメサイヤの讃美のピアノ伴奏を結婚する前からさせていただいています。今もピアノの伴奏だけではなく様々な形で神は私を用いてくださっています。そこに喜びを感じています。
 数年前、私はこのメサイヤのピアノ伴奏で神から示されたことがありました。自分を認めてもらいたいという傲慢な気持ちを強くもっていた者でした。その思いを捨てることができずにいる時に、心から神の前に讃美をお捧げすることができませんでした。
 私は結婚をしてからメサイヤの伴奏を一人で弾いてきました。長く弾き続けていたことで、段々と傲慢な心が強くなっていきました。数年前から、若い兄姉がその伴奏に加わり始めました。そのことに私は喜べない自分がいることをわかっていました。メサイヤの伴奏を通して示された私の傲慢な心は信仰生活にも大きく影響していました。この時の私は、心の乏しい者であることを家族や教会の方々と触れることで思い知らされ、悩む者でした。特に、子供達に、キリストの十字架を信じてあゆんで欲しいと願う時に私の足らなさが示されました。
 しかし、私の心の思いを神は婦人伝道師を通して示してくださいました。傲慢な心が罪であると示され、もう一度新たな心で課題に取り組み始めました。何もないところから一つ一つ積み重ねていきました。少しずつ積み重ねていったことから、まわりを見渡すことができるようになり、より積み重ねる大切さを実感できました。それは、教会の先生方が、忍耐をもって祈り、愛してくださったからこそ、なし得たことだと思います。
 また、毎週の諸集会や礼拝の中においても、メッセージに生きる現場があることが示されていることによってあゆむことができたのだと思います。不足の多い私ですが、神の御心の中に生きることを祈り求める者には、少しずつ大切なことを教えてくださいました。試練や訓練を与えてくださいました。
 そうしたあゆみのなかで、私は若い人達とメサイヤの伴奏の練習を少しずつ一緒にして神の前に讃美をおささげした時に、心からの喜び、それも今までとは違う感謝が与えられたことを覚えています。
 今年も若い方々がピアノの伴奏に多く加わってくださいます。今では、年齢を重ねていくうちに、ピアノにおいても衰えを感じますが、若い方が支えてくださるようにもなりました。信仰生活においては、衰えを感じないように、若い兄姉と共に日々の営みと訓練の中を歩んでいくことを願っております。