同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく (30) —


「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。」
(コリントⅠ 2:11-16)


 前号に、自分の生きてきたところ<信仰について、霊性について>は、三つに区分できることを説明いたしました。
 その区分の変わり目には、2回とも「心の砕けた」と表現するのがぴったりあてはまるこころの状態でした。
 救いに与る前、私は自分が「自分は汚れた者、聖い神の集会に座るのに相応しくない者」であると分かりました。 ですから、神に近づくために集会に行こうと思ったとき、それは困難なことでした。
「まして天にいます汝らの父は、求むる者に善き物を賜はざらんや」(マタイ 7:11)
というみことばがなんと助けになったことでしょう。
そのとき私は既に洗礼も受け、盛岡の教会会員でしたから、集会にでるためにはこの仙台の教会に転会させていただく必要があると思い、先生のもとに行き、「<集会に相応しい者ではありませんけれど>転会し集会に出席させていただきたい」とお願いしました。
先生は承知してくださり、「汝ら我を選びしにあらず、我なんじらを選べり」(ヨハネ 15:16)を引用して祈ってくださいました。
帰り道、こころ軽く、本当に足まで軽いようでした。
その後については先にのべたとりです。

 第二から第三の段階と表現したところの問題は結婚についてでした。
間のことは全部省略して、その時のことだけ述べます。私が結婚したいと言ったので、先生ご夫妻が、相手の方を探してくださったのです。先生は私に先方の方の書類をみせたとき、私が、気が進まないのをみてとって、そのまま話を引っ込めてしまわれました。もし、「どうしますか?」とたたみかけて問われたら、きっと「はい」と返事をしただろうと思っています。神のお取り扱いを受けずに結婚していたら大変なことでした。先生ご夫妻とも、私にそれ以上一切何もおっしゃいませんでした。
その結婚が神のみこころによるものであることを私は理解しました。
ですからそこに進んでいかれないことは、神のみこころに沿っていないところを歩んでいるのでした。
その状態は、先にのべましたように、「神がみ顔を隠された」ようでした。
このときは、直接神に願い求めて、先に述べた恵みをいただきました。結婚の話も先生に「もう一度お願いします」、と願い出て回復していただきました。間に立って下さった方が、納得ができないと先方にお断りをいれていなかった、という助けがありました。

 さて私たちはどのようにしたら、砕けたこころを持つことができるでしょうか?
 ある方がそれを持つことができた事例です。その方は、キリスト教に熱心で、献身して伝道者になろうと思っていました。
しかし、心砕けて涙とともに悔い改めた経験がない、と先生に告げたそうです。 導かれた先生は、「あなたは盗みをしたことがありますか?」と尋ねたそうです。こたえは「はい。あります。」と。
「それでどうしたのですか?」と問うと、「そのまま何もしていません。」
「では、今からいって謝っていらっしゃい」
と先生に言われて、謝罪にいったそうです。
帰ってくると、先生の前に心砕けて涙とともに、悔い改めをし直したということです。
 これは一事例です。
 「こころに知れる罪」を本当に処置することに、こころ砕けることのできる道があることを示しています。