同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 罪について(10)—

野澤 睦雄


「愛は・・人をねたみません。」(コリントⅠ 13:4)


<2.各論>
(1)ねたみ(9)


 罪のひとつである「ねたみ」について考察してきました。
 これまで述べてきたことを振り返り、整理してこのテーマを終わりにしたいと思います。

 ねたみは人のこころの奥にあって、時には隠されていることが多いでしょう。
けれども、ねたみはねたんでいる相手の人物を陥れようという行動に走らせます。そして、それに別の理由付けをする「嘘」を生み出します。更にそれがエスカレートして、殺してしまおうというまでにいたります。
 その実例は、これまで引用してきたカイン、ヨセフの兄たち、サウル、パウロに敵対したサドカイ派のひとたちやパリサイ派の人たち、などの記事に明らかです。
 荒野でモーセに逆らった人々について、
「彼らが宿営でモーセをねたみ、主の聖徒、アロンをねたんだとき、・・」
(詩篇 106:16)と、その動機がねたみであったことが記されています。
イエスを殺した人々は、イエスが多くの人々を引きつけたことをねたんだことがその始まりでした。
 以上のようなことを参考にして、自分自身のことをよく観察し、考えましょう。

 聖書はこのように告げています。
救われる以前の私たちは、
「私たちも以前は、・・・、悪意とねたみの中に生活(する)・・者でした。」(テトス 3:3)
そのような私たちも、神の恵みによって救いを与えられました。
「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」。  救いに与った私たちに、なお以下のような警戒の言葉が伝えられています。
「もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。 ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。」(ヤコブ 3:14-16)
「あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。」(コリントⅠ 3:3)
「肉の行いは明白であって、次のようなものです。・・ ねたみ、・・・、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」(ガラテヤ 5:19-21)

聖書の前後の文脈をみれば、ヤコブもパウロも、これらのことばを「信者」に向かって述べていることは明らかです。
 つまり私たちは、これらの警戒のことばを受け止めて、自ら進んでこれと対峙しなければなりません。自分のこころを見ないようにしていてはいけないのです。
また時には自分でも、自分が他の人をねたんでいることに気づいていないかも知れません。
「神を畏れる」ことは信仰の土台であり、信仰に関わる「知識のはじめ」「知恵のはじめ」です。「罪を恐れ、罪から離れる」ことが、「神を畏れる」ことの重要部分です。罪を犯しながら、神を畏れている、とは言えません。
 もう一度自分のこころをよく観察して「ねたみ」に所を得させませんように。

 もし自分の子供がかつて自分の犯した罪と同じ罪を犯したとき、それをピネハスのように神の聖なるねたみをもって対処できるか否かによって、私たちの神への畏れの程度がはかられるでしょう。ダビデの轍を踏みませんように。
その罪の故に子供を怒れば、それが自分にかえってきますが、それが大切なのです。
神の前にへりくだって、自分はそういうものであったことを認め、キリストの救いの中に生き続けることです。

(仙台聖泉キリスト教会員)