同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— イエスの十字架と父への信頼 —


「ゴルゴタという所・・に来てから、
・・こうして、イエスを十字架につけて・・。
同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。
「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。
彼は神により頼んでいる。
もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。
『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」
(マタイ 27:33-43)


 3月最後の週が受難週、4月1日がイースターです。
十字架を前にしたイエスの心情はどのようであったか、私たちは思いを巡らします。

 十字架の時が近づいたとき、イエスはペテロとヨハネとヤコブにご自分のこれからなさろうとすることを見せられました。
「祈るために、山に登られた。
祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。
しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。
それはモーセとエリヤであって、 栄光のうちに現われて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。」
(ルカ 9:28-31)
モーセとエリヤと話していたのは、エルサレムでのご最後のことでした。
そしてそのあと弟子たちにはっきり「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。
人の子は、いまに人々の手に渡されます。」(ルカ 9:44)
といわれましたが、「しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。」
(ルカ 9:45)のでした。

弟子たちの実態は、
「さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。」(ルカ 9:46)
といった程度でした。
それで、イエスはこのような実例を使って弟子たちを教えなければなりませんでした。
「しかしイエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせ、 彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」」
(ルカ 9:47-48)

   弟子たちはそのような有様でしたが、
「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、・・
進んでおられた。」(ルカ 9:53)のでした。
エルサレムに近づいて、
「さて、イエスは、エルサレムに上ろうとしておられたが、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。
「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。
人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。
彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。
しかし、人の子は三日目によみがえります。」(マタイ 20:16-19)

このようにこれから起きることを弟子たちに告げたのですが、彼らは一向に理解しませんでした。

そのすぐ後、母親まで出張ってきて、自分の二人の息子を、最高の地位につけて欲しいと頼む始末でした。

「そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。

イエスが彼女に、「どんな願いですか」と言われると、彼女は言った。
「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」
けれども、イエスは答えて言われた。
「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。
わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」
彼らは「できます」と言った。
イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。
しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」
(マタイ 20:20-23)
 それを知った他の弟子たちが、
「このふたりの兄弟のことで腹を立てた。」
(マタイ 20:24)
のでした。


 イエスは、ご自分の事業を知っておられました。それは、
「わたしは・・わたしの教会を建てます。」
(マタイ 16:18)
でした。

 ご自分で建てるのではなく、自分は死んで、弟子たちに建てて貰うのです。
だがこの弟子たちの有様、その理解、その願望、その品性は、イエスの教会とはなんと遠かったことでしょう。

 最後の晩餐は、弟子たちを教えられた締めくくりです。

「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」(ヨハネ 13:1)

そして祈りをもってご自分と弟子たちを父に委ねました。(ヨハネ 17:1-26)

 ご自分の事業を弟子たちに委ね、十字架に進むことは、ただ父への信頼にかかっていました。