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キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

~ 祖母の召天 ~

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森田 忍

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ 3:16)

 9月7日、東京の祖母が天に召されました。
冒頭の御言葉は祖母が救いの恵みにあずかった時に与えられたものであり、葬儀の際、私が読ませていただきました。祖母との最期の時、この箇所を持って神の元へ返すことができました。
 葬儀の後、親戚一同で祖母の生涯を振り返る時が与えられました。その時私は、祖母の知らない一面を知りました。私が知っている祖母は、大きな声で笑ったり、喜んだり、讃美歌を歌ったりと元気いっぱいという言葉がぴったりでした。しかし、若い頃は兄弟の中でも暗く、口数も多くなかったと聞き驚きました。祖母は七人兄弟で、戦争中、女学校をやめ、弟や妹たちの面倒を見ていました。そんな祖母は、イエス・キリストと出会い、変えられ、戦後の時代の中でしたが希望が与えられ、クリスチャンとしての歩みが始まったことを知りました。

 短い時間ではありましたが、葬儀を通して、今の私のクリスチャンとしての生活があるのも、神が祖母に働きかけ、祖母が導きの中で従順に歩んできた信仰があるためだと改めて感じさせられ、感謝する時でありました。また、悲しみの中にある時ではありましたが、祖父を孫全員で囲み、ともに時間を過ごすことができたことも私にとっては幸いなことでした。

 この祖母の昇天を通し、自分自身の、ともに生きるクリスチャンに対する信仰による営みの姿勢を改めて振り返り、意識させられました。私たちが信じる神は目には見えません。しかし、私たちの信仰の行いや営みの中で、神が御業をあらわされます。それを私たちが、自分の力や能力ではなく、神の導きによってなさせていただいたと思うことのできる、柔和な心を持っていることが大切であると感じさせられています。この心を持っていることにより、ともに生きるクリスチャンの中にある信仰による営みを発見する喜びがあり、またその一面を私も大切な営みとしてともに守らせていただこうと思わされています。

 礼拝のメッセージにおいても神は人格との交わりを通して御自身をあらわされる、人格なる神であると語られており、人格同士の交わりをこれからも大切に続けさせていただきたいと願っております。

(遠藤姉がご自分でされた救いの証が、本誌の1号に掲載されています。ホームページのバックナンバーで読むことができます。・・編集委員)

(仙台聖泉キリスト教会 会員)