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キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

~ 娘の誕生 ~

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森田 忍

「忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」(ローマ 5:4-5)

 昨年11月12日に娘の悟実が誕生しました。冒頭の御言葉は、娘の誕生した際に山本嘉納先生より与えていただきました。昨年一年を通してメッセージの中で語られた「悟りを得た信仰」というところから、悟実と名付けていただき、私たち夫婦も、娘の誕生と、メッセージが現されたことに感謝いたしました。この小さな家庭も教会の先生方、兄弟姉妹の豊かな関わりと支え、祈りにより支えられ、新しい魂が与えられましたことを感謝しております。
 娘もこのところまで順調に成長が与えられ、体重は出生時より1kg増え、顔つきもしっかりとしてきました。また一ヶ月が過ぎた頃には、一緒に外を散歩すること、大きなお風呂に入ることができ、私自身は娘とのお風呂の時間が、心を落ち着かせ、娘の成長を見られる喜びの時間となっております。最近では、娘の目線がしっかりとしてきているのがわかるようになりました。まだ何がおこなわれているのかわからないながらも、娘自身も目が見えることによっていろいろなことを感じているのかなと私も思っております。
 娘との関わりの中で最近たびたび感じさせられることは、人間は慣れる生き物だなということであります。日々の生活をなしていく中で、仕事をして、教会へ行き、そして家庭の生活と、3つのコミュニティーの中で生活をしておりますが、3つのどれにも共通して大切なことは、それぞれのコミュニティーにおける営みの小さな積み重ねを継続する力だと思わされています。それぞれのところにおいてすることは違いますが、私自身この継続する力が足りないと示されることがたびたびあります。家庭においては、その日の疲れ具合で、「今日はこれはしなくてもいいか」など、仕事においても、仕事の進み具合がよくなかったり、トラブルや大変な思いをすることがあったりすると、さまざまなことに手を抜きやすい者であり、片手間な仕事をしてしまったりと、さまざまな場面で自らの弱さが出ます。
 このことについて、クリスチャンとしてどのような危なさがあるのか、考えさせられます。先ほどの、慣れるということとあわせて考えると、自らの弱さに慣れることで改善する心がなくなり、弱さを弱さのままで留めておいてしまうということに、危なさがあると感じました。
 神は試練をお与えになられるお方です。この試練は私たちをただ苦しみの中においておくのではなく、乗り越えるものとしてお与えになるのだと思います。慣れは、自らを神の試練に入れようとせず、ただ良いものだけを待ち望む者にさせてしまう恐ろしさがあることを、娘との関わりの中で感じています。私は神の試練の中に自らを入れつづける者でありたい。この神から与えられた命を神と人とに喜ばれる者として育てていくためにも、まず私自身の信仰を考え、神に感謝をささげつつ、自らの信仰生活、今年も確かな一歩を歩み続けていける者でありたいと願います。

・・写真 「この1枚」に献児式の時の写真が載せられています。・・

(仙台聖泉キリスト教会 会員)