同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— ともに歩んでくださる主 —

miwa-san

石井 ミワ

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。
恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。」
  (イザヤ書 43:4-5)

 先日、野外礼拝にて、私の救いの証しとともに、祖母との思い出の証しをさせていただきました。
その準備をするにあたって、祖母が生前していた証しを思い巡らすときが与えられました。
祖母の若いころの証しの中に「仏教徒の主人のもとに嫁ぎ、教会からも遠ざかっていたけれど、遠く満州の地でもイエス様がともにいてくださり、守ってくださっていることがわかった」ということばがあり、本当に祖母の人生に神が伴ってくださったのだと、改めて思い起こす時となりました。

 私が生まれた当初、祖母だけがクリスチャンという家庭でした。
祖母は私をよく叱り、よく愛してくれました。
笹巻きの作り方を教えてもらったこと、桐の粉で人形を作ってくれたこと、お茶の先生をしていた姿、また、毎週教会に連れて行ってもらっていたことも懐かしく思い出されました。

 私が子どもの頃に起こった一つ一つの出来事は、両親の救いのきっかけとなり、弟たちも救いに与って行き、祖父も亡くなる直前でしたが、自ら告白して洗礼を受けました。
だんだんと家族が救われていくなか、私は一人意地を張り、できない自分にとらわれ、できる人を羨み「主イエスの救いはああいう人のためにあるんだ」と、勝手なことを思い、救われない自分は適当に生きようなどと思っていました。
だんだんと教会からも離れ、大学に入り親元も離れて、どんどん生き方が適当になっていきました。
しかし、大学のサークル紹介で「聖書研究会」なるものを知り、足を踏み入れることになります。
聖書研究会に入り一年が経った頃のキャンプで、「神が『私の十字架はあなたのためのものです』とおっしゃっておられるのに、『違う』と言うあなたは一体何ですか?
あなたが誰かに愛を告げて、「違うでしょ」と言われたらどうですか?」という問いかけがなされました。
私は、あまつさえ謙遜だと思って言っていた「私はあなたに愛されるような者ではないです。」という、そのことばが、どれだけ神を悲しませていたのか、そう問われて初めてわかり、どれだけ自分が、物事がわからず、愚かで、しかしそんな私をも神は確かに愛してくださっていたのだと理解し、洗礼を受ける決心をしました。

 思い起こせば、クリスチャンであった祖母が私を育ててくれていた、その陰にいつも主イエス・キリストがいてくださっていたことから始まり、「イエス様の十字架は私なんかのためじゃないでしょ?」と、不遜にも言い続けていた頃でさえ、私の人生の出来事の一つ一つに神の配剤があり、祖母がかつて感じたように主イエスがともにいてくださり、守ってくださっていたこと、今もなお、ともにあって導き続けていただいていることが、本当によくわかります。

 私の子どもたちは、今、教会のなかで豊かに育てていただいています。
山本先生ご一家、教会学校の先生方をはじめ、兄弟姉妹お一人お一人が豊かに関わってくださっています。
そのことを本当に感謝するとともに、親である私自身が畏れを持ちながら子どもたちと対峙していかなければならないことを覚えます。私自身は、自らがこれだけ愛されながら、その愛に気づかない者でした。
しかし、そのことを心するとともに、子どもたちが、神と人の愛を理解し、受け入れて主のみ腕のなかに生き続けることが出来るように、尚、真実に謙って歩んで行きたく願っております。

(仙台聖泉キリスト教会会員)