同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 罪について(20)—

野澤 睦雄


「彼らは、あらゆる不義と悪と<むさぼり>と悪意とに満ちた者、ねたみと・・・慈愛のない者です。」(ローマ 1:29-31)

<2.各論>
(3)貪欲 <3>


  前回は、貪欲に注意しなさい。ひとのいのちは財産にあるのではないから、というイエスのことばを掲げましたが、今回は、人間はこういうものになったと主張しているパウロのことばです。パウロはここで人間の多くの罪を拾いあげていますが、その中に人はむさぼりに満ちたものであるとしています。人間がそうなった原因に着いても述べて、
 パウロはこのローマ人への手紙1章に人間の罪の実態を書いていますが、その根本原因は神に変えて神でないものを拝む<偶像礼拝>にあるとしています。
「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、・・・
それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。
・・・
また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。・・・」
(ローマ 1:23-27)

私たちのすぐそばに神道(宮・神社)や仏教(寺)があります。またイスラム教やキリスト教系の異端、カルトなども同様ですが、それらが人間の罪の起源になっていることを知って、それらを憎むべきものと思わなければいけません。神社仏閣を憎むべきものと主張しても、理解できない方々が多いのではあるまいかと思います。
 先に引用したアカンの罪の例では、アカンと一緒に家族全員が死ななければなりませんでした。個人と家族、個人と特定の集団、個人と民族全体、というようなつながりも考えさせられるテーマです。
イスラエルが出エジプトしたときの旅の途中で、モーセに逆らったダタン、アビラム、コラという人物がいましたが、ダタンとアビラムは家族全員生きたまま黄泉に行きましたが、コラの子どもは残され、神殿での讃美を担当するものとなりました。
神のなさることを私たちは全部見極めることはできません。伝道者の書に書かれているとおりです。

 私たちは貪りに注意しましょう。その影響を受けるのは自分ひとりではなく、愛するものたちにも及ぶことが重要事です。

(仙台聖泉キリスト教会員)