同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

~ 教えられる事の大切さ ~

masaru-san

石井 勝

(写真はHIS OWNのサテライトコンサートから)


「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(テモテⅡ 3:16)

結婚が与えられて、4か月が経ちました。新しい生活にも慣れ、この所まで守られた事を感謝します。
私たち夫婦は、休日になると、スポーツジムに通っています。結婚前は別々のジムに通っていましたが、結婚を機に同じ所に通うようになりました。

  妻は今まで特段、スポーツをしてきた訳ではなかったので、前のジムに通い始めたとき、「折角通うなら、基礎から教えてもらおう。」と結婚するまでの約2年間パーソナルトレーニング(トレーナーとのマンツーマン指導によるトレーニング)を受講していました。
 結婚後に初めて一緒にジムに行ったとき、妻がダンベルを使ったトレーニングをしていましたが、素人目の私から見ても、とてもいいフォームだと驚きました。通りがかったトレーナーの方も「とても綺麗なフォームですね!!」と妻に話しかけており、「あー、人にきちんと教えてもらうとはこんなにも違うものなんだな…」と強く感じました。

  私は今まで、言わば自己流でトレーニングをしていましたが、最近その成果に伸び悩みを感じていました。 妻の成果をみていたので、私も一からトレーニングについてきちんと習いたいと思い、2月からパーソナルトレーニングを受講する事にしました。

 私達の教会では、礼拝前の1時間、各年代に分かれての教会学校の時間を持っています。今年の2月より、長年、青年科で教師をされていた山田兄が私たち成人科の教師となられ、聖書を一から紐解いて下さり、聖書を正しく理解とするという学びが始まりました。
 15年程前、私がまだ、青年科の生徒であった時、兄弟の聖書の学びを受けていましたが、今、当時の事を思うと、学んだ事柄をただ聖書の知識として理解するに自分の中で終わらせてしまっていたと思います。 こうして、再び兄弟の学びを受ける事が出来る事を感謝すると共に、この学びが単なる聖書の知識で終わるのではなく、日々の信仰生活の糧となり、また週ごとに語られる礼拝のメッセージを捉える助けとなる事を願いながら、取り組んで行きたいと思います。
 自己流で聖書を捉えること。それは信仰者としての成長を止めてしまうものであると思います。この与えられた機会を自らのものとして、尚、信仰者として前進する者でありたいと思います。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)