同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

~ クリスチャンとして働く ~

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森田 忍

(写真は 野外礼拝 から)


「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。」(ルカ 6:47-48)

 先日の聖書を学ぶ会において、サムエル記第一21章が開かれました。
 ダビデがサウル王から逃げる中、気違いを装いその場を逃れようとする場面がありました。この箇所において、山本嘉納先生は、ダビデの理想とするものと、自らが行っている現実の中にギャップがあり、このギャップのなかに身を置き続ける中で神からのお取り扱いを受けたことを語っておられました。
 その時に私は、私の生活においても、物事が思い通りに進まないギャップがあり、それに対して苛立ちを感じることがあるのですが、それは私の忍耐が足りないのでしょうかと質問をさせていただきました。

私は会社に勤めて約10年になりますが、2年ほど前から、自らが班長を任ぜられ、2人班として業務にあたっています。その班の部下は、自分より30歳以上年上の方です。その方は、今まで全く違う業界で働いてこられたので、私が現場で一つひとつ教え、カバーしながら、少しずつ覚えてもらえればと考えていました。しかし、2年が経過しましたが、なかなかそれが思うようには進まず、今もどのように日々の業務をなしていけばよいのか難しさを感じています。時に、自分自身の苛立ちをそのまま感情的に相手にぶつけてしまうこともありました。私にとっては、目の前にある仕事をこなさなければならないという現実と、クリスチャンとして相手に敬意を持って接したいという理想との間でギャップがあり、対応の困難さを覚えながらこのところまで来ました。

 ダビデの記事の中で、どこまでもこのことが神からの取り扱いであると認識していくことが大切であると語られていました。
 私の場合は、いろいろと理由をつけて、相手のせいにしたり、自分はこんなにやっているのにという思いに駆られたりしやすい者ですが、神はその姿を喜ばれないだろうと思わされました。神に取り扱われているということに対して従順になり、そこに身を置き続けるということについて考えさせられます。
 聖書を学ぶ会では、山本先生から、若い時はその一つの部分に目が行きやすく、それを取り除けばすべてが解決するように思いやすいけれども、歳を重ねると物事をトータルでとらえることができるようになってくるということが語られておりました。いろいろと理由をつけたり、環境のせいにしたりすると、それを取り除いてほしいという思いから、ご利益宗教につながりやすいということも教えていただきました。

 以前から家庭集会においても、山本先生から、家庭の中に仕事の愚痴を持ち込まないことの大切さが語られ、家に帰る前に車の中で、気持ちを切り替えるおすすめをいただきました。妻からは、平日の夜の集会が終わり帰路につく際に、すぐに仕事がどうだったかの話をするのではなく、集会が自分にとってどうであったかをお互いに振り返る時を持ちたいと言われました。それからは妻と話す際に、自分の中で意識して、何を話すかを考えることに取り組んでおります。こういった取り組みも、家庭にとって小さなこととして流してしまうのではなく、神が私に示されていることだととらえ、取り組んでいきたいです。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)