同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 聖書を読むは楽し・・ローマ人への手紙 —


  ここに述べることは、キリスト教の世界の定説ではなく、異論に当たる。「ふーんそんな読み方もあるのか」、と思って頂いて結構である。

 私は以前私の教会の聖書研究会の発表担当者をしていて、ローマ人への手紙に取り組んだことがある。
  (本誌、第1号から第15号に連載。バックナンバーを開けばお読みいただけます。)
 ローマ人への手紙について、先人の著作を読んでみると、大方

 ・書き出しの挨拶
 ・教理の部分
 ・イスラエルの問題
 ・実践の部分
 ・締めくくりの挨拶

と区分されていて、それが定説となっていることは明らかである。
 研究内容を発表するという立場に立って、ローマ人への手紙を読み直してみて、教理と実践の対比が気になった。
私はものを作って売る会社の、世にいうエンジニアで、研究開発から製品を生み出し、量産化し、その生産現場の品質管理と技術支援、販売の技術支援などに関わった。色々な製品があったが特に長く関わったのは時計用の酸化銀電池である。私一人でなくチームでであるが、それまで世にない電池を開発して世に送り出し、時計が機械時計から電子時計に変わる、その一端を担った。
 科学技術の世界では、理論と実証実験は対比して行われる。もちろん、実際が理論と一致しないということが珍しくないが、おなじ内容のテーマが理論と実験で対比される。
 そういう感覚が身についているので、教理すなわち理論と、実践すなわち実証実験との間におなじテーマについてもっとよく対応していないとおかしいと感じた。
 救いの教理はこれこれ、聖潔の教理はこれこれといったら、その実践はそれについてどう実践するのかとなっていれば納得である。ところがローマ人への手紙はそのように書かれてはいないのである。

 それで私は、パウロは

 ・書き出しの挨拶
 ・救いの教理
 ・聖潔の教理
 ・結実の教理
 ・締めくくりの挨拶

と三つの教理を並べたのだと理解した。
「イスラエルの問題」とされている部分は、結実の問題についての導入部であるとみた。なぜなら、9章から11章にはこういうことが書かれているからである。

 ・誰を救う(義とする)かは神の勝手である。
 ・その権威をもって神は「信じるものを救う(義とする)」ことに決めた。
 ・イスラエルはモーセの律法を行うことによる義に固執し、信仰による義を受け入れなかった。
 パウロはイスラエルと異邦人をオリーブの木に例えてこう述べている。
「初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。」(ロ-マ 11:16-23)
 この部分の要点は、よい木であったはずのイスラエルは、その不信仰のゆえに折られて実を結び損なっている。あなたがたはそのオリーブの木に接ぎ木されたものである。
だからあなた方は恐れをもってよい実を結べ、とパウロは勧めている。

 悔い改めた人々に、バプテスマのヨハネは「悔い改めの実を結べ」と言った。

ではどうするのかという質問に彼はこう答えた。「群衆はヨハネに尋ねた。「それでは、私たちはどうすればよいのでしょう。」 彼は答えて言った。「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい。」 取税人たちも、バプテスマを受けに出て来て、言った。「先生。私たちはどうすればよいのでしょう。」ヨハネは彼らに言った。「決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません。」兵士たちも、彼に尋ねて言った。「私たちはどうすればよいのでしょうか。」ヨハネは言った。「だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」(ルカ 3:10-14)
 第一の教理である救いを受け義とされた人は第二の教理である聖潔に進み、聖化の恵みを受けたひとは、第三の教理である「御霊の実を結ぶ」ことに進む。

 その結ばなければならないよい実はこういうものであると、12章から15章に渡って書かれているのである。その実は悔い改めの実と同様「行うこと」である。実は神が与えてくださるものと勘違いしませんように。

 聖書を思い巡らすことはなんと楽しいことでしょう。