同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— きよい心と品性の関係 —


「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。」(マタイ 5:8)
「聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」(ヘブル 12:14)
「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」(ペテロⅠ 1:16)
「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ 5:48)

 恵みに成長し、成熟した品性の持ち主になって、聖化に至るのではないことを述べてきましたが、このことについて、ナザレン教会(教団)の信仰告白には、次のように掲げられていて、これが適切です。
「私たちは、きよい心と成熟した品性との間に明確な区別があることを信じる。前者は瞬間的に得られる全き聖潔(きよめ)の結果であるが、後者は恵みのうちに成長する結果として得られるものである。」
(日本ナザレン教団の公式ホームページから引用)

 人の救いに関する神のみ業には、「救われる」ということと、「潔められる」(聖化、聖潔、キリスト者の完全など呼び方はなんであれ)ということがありますが、この二つには類似性があります。

 救われた時何が起きたか、真の救いの経験に導かれたキリスト者の皆さんは、よくご存じです。それは、
第一に、救いは罪の赦し(義認)と新生という切り離すことのできない二つのことで成り立っています。
第二に、それまでに無かったレベルで神を愛すこと、人を愛すこと、聖書を愛すこと、教会を愛すこと、讃美すること、祈ること等々ができるようになり、新しい人になります。この「愛す」は同時に「信じる」ことも伴います。
第一が決定的に重要ですが、第二がそれを証明しています。第二のことがなかったら第一の経験は疑わしいのです。
ただ、第二のことは信仰生活を続けていくうちによりよくできるようになる面があります。

 潔められたとき起きることは、
第一に、私たちの内にある「古い人(罪性、自我等々と呼ばれていますが)」が、聖絶される(キリストと共に死ぬ)ことと、聖霊に満たされ(キリストと共にいきること)、きよい心が与えられることです。
第二に、潔い品性が与えられます。それによって、行動の動機が愛であり、謙遜で、柔和であり、欲望、怒り、利己心、などの好ましくないこころから解放されます。ただし、いきなり円熟した品性に達するのではありません。これらの事柄に関係する人の行動、行為には、罪になるものとならないものがあります。しかし真の聖化に与ったならば、聖霊がその是非を示して下さいます。
 実際生活の場面で、「こういう受け答えをしたが、言葉がよくなかった」とか、「失敗した。こうしてあげればよかった。こうすればよかった。」というようなことがよく起きます。潔めの恵みに生き続ける時、成長して「失敗した」ということが減って、よりよく恵みに相応しい行動ができるようになります。

 聖化だ聖霊経験だと騒いでも、もし第二の事柄が伴わなかったなら、その人は偽りの霊を受けたのか、聖化の恵みに与ったつもりになっているだけで、実際にはそれを受けていないのです。第二の事柄が、確かに第一の恵みをうけた証明になります。

 潔めの恵みに与っていないのに、潔められたつもりになる誤りを犯すのは、誰でしょうか。
 カルビン神学を信じる皆さんは、生きている間は聖化される(全き聖潔という意味で)ことはないと信じていますから、そのような誤りは犯さないでしょう。
ルーテル派の人々も、第二の転機としての聖化の恵みがあると考えないので、この方々もそういう誤りはおかさないでしょう。
この種のあやまりを犯すのは、きよめ派の、それも長く信仰生活をした人々に多いでしょう。

 そのような誤りを犯す理由は、漸進的聖化を信じること、つまり第二の転機を経験しなくてもきよめられていると信じることが最も多いであろうと推測できます。
教会の中で育った子どもたちは、救いの恵みに与っていなくても、救われた人と同じようにし、肉体の成長と共に教会員になり、信者のつもりで生きていきます。
それと同じことが、きよめの段階でも起きるということです。きよめが語られる教会に生きていると、潔めに関する知識もあり、潔められたもののように振る舞います。
ですから、漸進的聖化の考えがきよめ派の人々の間に広まることを危惧するのです。

 潔められたとき起きる第二の事柄を自分に当てはめて、自分を吟味するとよいのです。
・私の行動の動機は、ただ愛のみになっているか?
・利己心から解放されているか?
・富、地位、名誉などさまざまなこの世のことが、神とその教会のことよりも大切な自分の宝になってしまっていないか?
 ・怒ってしまわないか?(例えばモーセはこの怒りで失敗しました。神が岩に命令しなさいと言われたとき、民を怒って岩を打ちたたいたのでした。しかしピネハスの怒りは神に喜ばれました。民数記25:7-13)
 ・欲望にこころを動かされていないか?
等々様々なチェックポイントがあり、しかも先に述べましたように、聖霊に教えていただかないと、避けるべきものであるかどうか判断できないことがあります。けれどもこの吟味は必ず行う必要があります。

 一番大切なことは、真実に神の前に出ることです。そうするならば、「あなたはきよい」「あなたはきよくない」と神は教えてくださいます。
 第二の転機を経験していないひとは、私はそれを経験していません、と自分でその事実を受け入れることが大切です。