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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-122  —

山本 咲


サムエル記Ⅱ 17章


 ダビデの息子アブシャロムが謀反を起こし、ダビデがその地位を追われているときのことが引き続き語られている。このところでダビデにとどめを刺す為アヒトフェルがどんどんと事を起こしている。その発言は軍事会議においても、大きな力を持っていた。彼の発言通り行われていたならば、ダビデは打たれ、滅ぼされていただろう。しかしダビデには友であるフシャイと伝令役となる者たちがそばにいた。そのうえ、アブシャロムはアヒトフェルの話を聞いて即決せず、わざわざ呼び出してまで、フシャイの意見を聞いた。加えて、アヒトフェルの意見ではなくフシャイの意見を彼は取り入れることにしたのだ。これは本来行われるべきではない誤ったことである。しかし、このようなことは起こる。人の言葉と心によって本来行われなければならないことが行われていかないのだ。もちろん神がそのことを成さったと聖書には語られているとおり、ここまでサムエル記を読む中で神が御手を動かしていらっしゃることを私たちは見ることができる。それは普通に考えれば行われなければならないことが覆され、神を信じ、その御心を歩むものにとって良いことが動いているのである。フシャイの進言は壮大すぎて、実際はそんなにうまくいくものではないことが少し考えればわかる。それでも、アブシャロムはそちらを選んだ。彼はこれまでの経験によってどんどん成長し、整えられるのではなく、逆に頼るものがない中、確信を得られず信じるべきものを誤り、どんどんと破滅へと迷い込んでいっているのである。フシャイはアヒトフェルのはかりごとのとおり行われればすべてが滅ぼされてしまうことが分かった。だからこそ、彼はその反対のことを提案することで、アヒトフェルのはかりごとを打ち砕こうとしたのである。それがダビデの友人として彼の生命を救う大切な一手だったのだ。人の言葉によって本来あるべき動きが違う方へと変わり、ダビデが救われていく。人がいくら駆使してことを企てても、また人の心をどれだけ言葉で揺り動かそうとしても、実際は神の御心がなされるのである。
 本当に神を畏れ、信じるときにこのように救いの道が整えられていくのである。ダビデがヨルダン川を越えたのち、彼のために多くの人が物資を用意し彼を助けた。それはダビデの人脈であり、いずれダビデが勝つということを確信しているからである。もちろんそれはただの勘や単純な動機ではなく、勝利をもたらす神と共に戦ってきたダビデの姿を知っているからである。
 私たち信仰者も何を捉え、自らがどうあるべきか考えたうえで、選択していくことが大切である。結果として、自分の欲で行うのか、それとも神を信じ恐れて道を選んでいくのかが重要である。聖書ではこのように神を信じ、選んだ者たちの行く末がすべて書かれている。それは、私たちにその道に歩んだ者たちの人生に表れる神の存在とその祝福を伝えるためである。そしてそれは同時に私たちがどう神と共に生きるべきなのかということを考えさせるためなのである。すでに民はダビデに飽きていたということをはじめに語った。それは民の生活がひどく安定していたからである。だからこそダビデからアブシャロムに鞍替えをしていった人たちがいた。しかし、本来はその安定した日々の中で自らの向上を図りながら、何か事が起こってきたときに対処できるような方法を得ていかなければならない。
 試されたときに自分がどのように生きるか、どのようなものであろうとするかが示される。なおこの日々の中、神を信じ、その御心に生き歩みを進めていきたく願う。


Q:先日の礼拝の中でザアカイについて取り上げられた際、彼が救われたことで神の心と同じくなり、彼の価値観が変わったことが語られました。そして彼は今持てる財産をすべて捧げることを選びました。彼の中に経済に対する執着が無くなったのだと思うのですが、日々生きる中で経済を考えた時にどうしても世的な価値基準も出てくると考えられます。考え方のバランス、世に取り込まれずに経済を形成していくにはどのようにしたらよいのでしょうか。

A:経済も祝福の一つであり、子どもが多く与えられることも祝福の一つである。経済はついてこなくても多くの人がついてくるということもある。その形はそれぞれだが、どれも神の祝福である。しかし、それらを得るために神を信じるなどというものであってはならない。それでは本末転倒である。ヨブ記には「主は与え、主はとられる主の御名はほむべきかな」と語られている。
 ザアカイはどのような経緯で取税人になったかはわからない。しかし、彼はその中で自分を豊かにしようとしていた。その過程で彼の価値観は人の賞賛よりも経済というものを選び取った。それによって得られるものは優越感である。彼はそれを生きがいにしていた。しかし、どこか彼の心の中には求めるものがあったのだ。経済でも、優越感でも埋まらないその穴。その空虚な心を埋めるもの、それを求める心が彼の救いへとつながったのである。
 また「急いで降りてきなさい」という言葉が語られているように、急いで、今すぐに降りていくことが必要なのだ。イエス・キリストの言葉の中に自らを生かしていくのである。私たちの日々も「こうしなさい」ということが分かっていても、行動に移せないという状況になりうる。神に促されたことに従い生きるときに、私たちは何かを捧げるかもしれない、手放すかもしれない。しかし、神はそれを担保してくださり、また違う形で与えてくださるのである。しかもそれは決して少なくはない、むしろ有り余るほどに与えられるのである。
 今日のダビデの話も同じである。ダビデもアブシャロムも罪人であった。ダビデは神を信じ、その御心を求めて生き続けた。しかし、アブシャロムは、神の言葉も聞かなければ、「神が語る言葉のように」と評価されていたアヒトフェルの言葉すら聞けずに滅びの道に向かっている。
  世的に経済を得ようとするということは、このアヒトフェルと同じである。自らの知恵を用いて、自らを豊かにしようとする行為であり、神の許しがなければそれは実現しないのだ。だからこそ、神を信じ、その御心を行うことが第一であり、それによって必要なものは神がすべて間に合うように祝福してくださるのである。
 ザアカイははじめに自らの財産の半分を捧げ、その後、だまし取ったものを四倍にして返すことを宣言している。その手元にはほとんど残らなかっただろう。もしくは足りないということも出てきたかもしれない。しかし、彼は四倍返した後、残りを捧げるではなく、まず捧げたのである。それは彼の神に対する信仰の現れである。もし足りなくても神が必ず何らかの形で恵みを与えてくださることを信じた。いや、ザアカイからするならば、もうすでにその恵みは与えられ、心が満たされたことがそうなのかもしれない。何にしても、ザアカイ自身が神を信じるゆえにすべて受け入れていることが表されているのである。この記事はイエス・キリストご自身が「裕福なものが神の国に入ることは何と難しいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい」(ルカの福音書18章24,25節)と語られた後に書かれている。それはどれだけの恵みだろうか。不可能に思えるようなことも神の力ならばできると聖書は語り続けてくださっているのだ。


Q:先日の祈祷会でエリコに行った斥候の話がなされましたが、斥候の選ばれた基準はその能力ではなく信仰的な価値観を共にしているかどうかということでした。もう少しお話を聞きたいのですが。

A:斥候の中にあった価値基準が、神の御心に沿っているかが重要だった。賢い人、能力がある人の方がいいと人は思う。しかし、実際はその賢さというものは自分の力である。もちろんその人が得た賜物であり努力の結果かもしれない。しかし、その背後に神がいなければそれは本当に価値のあるものではないのだ。知恵のある人というとこの話の中ではアヒトフェルがあげられる。彼は知恵があり、誰しもがその力を認めていた。しかし、そんな彼自身が神という存在へより頼むこともなかった。だからこそ、彼はダビデと信仰でつながる友人フシャイへの評価を誤り、それが彼の知恵を打ち破ったのである。その後、彼は潔く死を選んだ。それは彼自身が自分のおごり高ぶりと、選ぶべき人間を誤ったということに失望したのである。彼がダビデについているうちは彼自身の力も用いられていた。ただそれは神が許されていたからである。彼はバテシェバの祖父であり、自分で自分の地位や、業績を確立してきた人物である。だからこそ、ダビデが犯した罪へ何らかの思いを持ち続けていたのではないだろうか。そしてこの機会でアブシャロム側についてダビデを倒し、その思いを果たそうとしたのだろう。しかしその最後は自分の力により頼んだアヒトフェルではなく、神により頼んだダビデが残されていくという結果になったのである。私たちは最後にどのような道を選ぼうとも神の腕に抱かれる道へと導かれる。しかし、それを不安に思っているようではことは動いていかない。ダビデは自らの犯した罪を悔い改め、その先を神に委ねた。神がその罪のゆえに彼を滅ぼすということになろうとも彼はそれでもよいと考えた。なぜならそれがダビデにとっての最善であることを信じたのだ。
 私たちも同じようにイエス・キリストの贖いを信じることができれば、本来導かれる道なのである。それは他者ではなく自分の問題であり、自分が心から確信できるかということが重要なのだ。しかし、それをそうできないと、私たちは死への恐れから狂っていってしまう。アブシャロムも良いところまで行っているが結局、彼は神の道に歩むことがなかった。それは神の治める国であるイスラエルにおいて許されるものではなかったのだ。その決定が彼の最後を決めたのだ。
 私たちの人生や、生き方、事柄がうまくいかないときは、どこか狂っているところがあるかもと疑っていかなければならない。そこにはもしかすると神との関係がそうなっていないという場合もあるのだ。だからこそ周りの人に聞いてみることや、自分の何が悪いのかを見つめていくことが必要なのである。


Q:ローマ書2章6節「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります」というところと、ヨブ記4章7節「誰か罪がないのに滅びたものがあるか。どこに正しい人で絶たれたものがあるか。」のところからなのですが、今まで、ローマ書に書かれているように、私たちの罪に対して罰があると感じていました。しかし、その後ヨブ記の箇所を読んで疑問を抱きました。注解書には苦しみが罪に対して因果応報的に起こるものではないと書いてあったのですが、そのようなとらえ方でいいのですか。

A:苦しみそれ自体が罪の報酬、つまり神の裁きである場合と、そうでない場合がある。ヨブの友人はヨブの姿を見て「あなたの罪に対してこのことが起こっているのだから、悔い改めるべきだ」と語り、ヨブは「私は罪を犯していない」と語っている。実際ヨブは罪を犯していなかった。彼の信仰を悪魔が試すことを神が許されたのである。しかし、この繰り返しの問答の中で、彼らは神の姿を探り求めているのだ。そしてそれを読む私たちにも神はその姿を表しておられるのである。このような罪に対する滅びというものが指摘される一方で、覚えておきたいのが、神は限りなく私たちの罪ある姿に忍耐されているということである。神が犯した罪のゆえにすぐにでも私たちを裁かれたのなら、私たちは救われるはずもない。なぜなら、私たちは産まれながらに罪あるものだからである。本来ならば、神と関係を持つことなどできないような存在なのだ。しかし、神は私たちが悔い改めて、立ち返ることを望み、罪が入り込む前の人間と神との関係を再構築されようとしておられる。罪に対して、滅ぼすことを望んでいるわけではないのだ。
 また盲目に生まれた人の記事で罪のためにその様に生まれたのではなく、神の力が表されるために盲目に生まれたと語られている記事もあるように、苦しみ=罪ではないのだ。そのことを私たちは覚えていかなければならない。私たちに与えられる苦しみが神と私たちの関係を近づけるものである場合もある。私は屋根をはがして釣り降ろされた中風の人にイエス・キリストが掛けた言葉が「子よ。あなたの罪は赦されました」であったことから、私たちに必要なのは体の癒しではなく、それ以上に霊が救われることであるとイエス・キリストが示しておられることを語った。中風の人が癒されることではなく、神との関係が良好であることが大切なのだ。私がそれを繰り返して語るのは、本当に大切な部分を取りこぼさないためである。肉体の苦しみからの解放よりも霊が苦しみから解放されることが幸いであるという価値観を私たちの中に構築することが大切なのである。そうなれば死とは、信仰者にとって神の懐に抱かれることであり恐れることではない。しかし、私たちの中に喜びではなく恐れが顕著になってくる場合、それはこの価値観が構築されずに神に全き信頼を置くことができていないということなのである。
 私は27歳で命を終えた女性の記事を読んだ。彼女は神を信じているのにもかかわらず、病によって、苦しみ、結婚も、子どもが与えられることもなく生涯を終えなければならなかった。このことを聞いた人の多くはきっとなぜ神は彼女を救われなかったのか、その病をいやしてくれなかったのかと思うだろう。神など信じていても救われないじゃないかという人もいるだろう。しかし、実際に彼女の霊は救われたのだ。確かに多くのことをこの世で経験することはできなかったかもしれない。それでも彼女は最後には病で死のうとも、神の御下に行くという平安の中で生涯を終えることができたのである。結婚も子どもも与えられていても死の間際に恐れずに死へと向かえるとは限らない。むしろそうでない場合が多い。しかし、彼女はこの地で得られる最高の平安を得てその最後を迎えられたのだ。彼女の母親はクリスチャンだった。その母親の一番の願いはその霊の救いであった。病が癒され共に生きることも願っていたが、それでも、一番の願いが神によってかなえられたことを彼女は感謝し、娘を天へと送ることができたのである。
 私たちの中に苦しみがあり、神の御下へ行くことができるかと不安を抱えているとき、そこにはもしかすると罪があるかもしれない。そのように聖霊が語っておられるのかもしれない。思い当たらないだけで実際は無意識の中にその罪を認識し、それが恐れとなっている場合がある。だからこそ、私たちは日々を歩む中で神の決済を仰いでいかなければならない。何もかも自分で決めてしまうことは楽であり、一見自分に一番いいように感じる。しかし、それは神の御心ではない。私たちは知らないうちに罪に陥っているのだ。神の決済を仰がず、自分でそれをすることは罪である。そのような自称クリスチャンになってしまうことを恐れなければならない。教会にいてもそのようになる可能性は十分にあるのである。


Q:説教の中で固定概念ということについて語られていましたが、もう少し詳しく聴きたいです。

A:固定概念が、神の御心と結びついているかを私たちはもう一度考えていかなければならない。自分のそのような勝手な考え方によって本来あるべき信仰者の姿から狂わされていないか、もし狂わされているとするならばそこから変革をすることが必要になってくるのである。この教会にお嫁に来た人たちはことごとく固定概念を壊されただろう。しかし、その故に新たに変革を与えられ、多くの恵みを実感しているのだ。男性はそれをわかっているだろうか。母教会だからすでにその価値観は出来上がっているとは限らない。むしろ、違うところからきたお嫁さんたちの方が、一面悩みながらその固定概念を作り変えてきたために、旦那さんより理解している場合もある。ある姉妹が同労者の証文の中で娘のことを語っていた。姉妹は娘の限界を決め、これはまだ難しいからとレッテルを貼っていたことを婦人伝道師に指摘された。そこから彼女はその指摘を受け、可能性をつぶしてしまうのではなく、子どもに多く挑戦させるようにと考え方を改めた。そして同時にそれは子どもだけに強いるものではなく、自分自身に対してもそのようにしていかなければならないと感じさせられたと彼女は語っていた。実際に私は彼女の変化を実感している。これが信仰者のあるべき姿なのである。彼女はこのために婦人伝道師と多く時間をかけて関係を築き上げた。それは大変なことだっただろう。しかし、その故に彼女は信仰によって家庭を支え、子育てをすることができている。世の中にはクリスチャンホームであっても、クリスチャンホームらしくない家は多くある。だからこそ、私たちは自らの生き方、歩み方を常に考えていかなければならない。神が望んでおられることは何なのか。神に仕えるものを通して示されることを心から受け止めていかなければならない。そうでなければ、私たちの歩みは変革されていかないのだ。神は私たちを愛し、多くの人に恵みや祝福を与えようとして導いておられる。だからこそ私たちは、固まった思考で道を誤るのではなく、自らを固定概念から解き放たれ、神が示される道を間違いなく選び取っていきたく願う。


Q:隠されている賜物ということが以前語られていましたが、このキリスト教には隠されているものが多くあると感じています。それは自分で探っていくのがいいのですか。それとも人に聞く方がいいのでしょうか。それが奥義の大切なところなのかと思うのですが、どれがいいのでしょうか。

A:以前スカッシュの話をしたときに秘訣を「教える」「教わる」ということを語ったこともありましたが、秘訣、奥義は簡単に教えてもらえるものではない。また自分で探るにしても多く時間を割き、探り求めていかなければならない。そのためにはどちらにおいても努力が必要である。だからこそ一番はそのように簡単に手に入るものではないということを自覚する必要がある。時には誰かの足にすがりつくようにして教わっていく必要がある。自分で探るのもいいが、長く無駄に効果もなくわからないでいるなら聞く必要があるのだ。
 私はアルバイト先で働いていた時に、スキルを得るためにいろいろな人に教わった。しかし、それはただ教えてくださいと言って教えてもらうものではなく、その人に言われたことは全て最優先にして聞いている中で、相手が快く教えてくれるようにという努力をした。そのようなことが必要なのである。キリストを真心から愛するものに神は御心としての奥義を示し、福音を伝える良き器としてくださるのである。

(仙台聖泉キリスト教会牧師)