同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 聖書信仰-12 —

「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(テモテⅡ 3:14-17)

  神ご自身や、神が遣わされた人々から、曲がっているところを矯正していただくことは素晴らしいことです。それは、教えを聞いて「はい。分かりました。」ということ以上のことです。
 イエスの弟子たちの訓練は、教えることだけでなく、絶えず彼らを矯正することにありました。弟子たちはユダヤ人として生きていましたから、その習慣やものの考え方などが身についていました。
「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。・・ 」」(ヨハネ 9:1-3)
弟子たちの先入観には、目が見えないことは「悪」であり、誰かの罪によってそれがもたらされた、ということがあります。当時のユダヤ人が普通に考えていたことであろうと推測できます。彼らはその考えを改めなければなりませんでした。
イエスの回答は、この盲人の上に神のみわざが顕れているということであって、これからイエスが彼を癒やして、神のみわざが現れるということではありません。
彼らは世の中で起きているすべてのできごとについての見方を変える必要がありました。
「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」 (マタイ5:45後半)
神をそのようなお方として見ることが、彼らの必要としている見方でした。そう見ることができれば、「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。」(マタイ 5:45前半)
その展開としての教えが、山上の垂訓のこのみことばの前後に記されています。
 神はモーセにこう言われました。
「だれが人に口をつけたのか。だれが口をきけなくし、耳を聞こえなくし、あるいは、目を開いたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。」(出エジプト記 4:11)盲目に生まれついたのは悪ではありません。当時のユダヤ人はこれを見失っていました。