ショートコラムねだ
— 十二の石 —
皆さんは「十二の石」と聞いただけで聖書の記事が思い浮かぶでしょうか?
これはヨシュアが、イスラエルの民とヨルダン川を渡り、約束の地カナンに入ったところに立てた石です。
このことが記されている聖書の翻訳が、文語訳と新改訳では違っていて興味がわきます。原語には対応する訳語がいろいろあって翻訳者が選択します。
彼らが渡ったときのヨルダン川は雪解け水で川岸まで一杯になって溢れるばかりの時でした。契約の箱を担いだ祭司が先頭に立ち、その荒れ狂うように流れる水に祭司の足が触れると水の流れが止まり、壁のように立ったと書かれています。
「箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、──ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが──上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真ん中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。」(ヨシュア記3:15-17)
「民がすべてヨルダン川を渡り終わったとき、主はヨシュアに告げて仰せられた。「民の中から十二人、部族ごとにひとりずつを選び出し、彼らに命じて言え。『ヨルダン川の真ん中で、祭司たちの足が堅く立ったその所から十二の石を取り、それを持って来て、あなたがたが今夜泊まる宿営地にそれを据えよ。』」そこで、ヨシュアはイスラエルの人々の中から、部族ごとにひとりずつ、あらかじめ用意しておいた十二人の者を召し出した。ヨシュアは彼らに言った。「ヨルダン川の真ん中の、あなたがたの神、主の箱の前に渡って行って、イスラエルの子らの部族の数に合うように、各自、石一つずつを背負って来なさい。それがあなたがたの間で、しるしとなるためである。後になって、あなたがたの子どもたちが、『これらの石はあなたがたにとってどういうものなのですか』と聞いたなら、あなたがたは彼らに言わなければならない。『ヨルダン川の水は、主の契約の箱の前でせきとめられた。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水がせきとめられた。これらの石は永久にイスラエル人の記念なのだ。』」イスラエルの人々は、ヨシュアが命じたとおりにした。主がヨシュアに告げたとおり、イスラエルの子らの部族の数に合うように、ヨルダン川の真ん中から十二の石を取り、それを宿営地に運び、そこに据えた。 ──ヨシュアはヨルダン川の真ん中で、契約の箱をかつぐ祭司たちの足の立っていた場所の下にあった十二の石を、立てたのである。それが今日までそこにある──」(ヨシュア記4:1-9)川の真ん中の祭司が足が立っていた場所にあった12の石を運んで宿営地(ギルガル)に立てましたが、文語訳聖書では9節がこのようになっています。(日本聖書協会訳、新共同訳、King James V., New International V. なども、文語訳と同一です。)「ヨシュアまたヨルダンの中において契約の櫃(はこ)をかける祭司等(たち)の足の踏み立てし處(ところ)に石を十二立てたりしが今日までも尚ほ彼處(かしこ)にあり」(「かける」は「かつぐ」の意味)つまり川の底に沈んだ12の記念の石・・渡る前の地の石ですから、荒野の石です・・とギルガルに立っている川の中から運んできた12の記念の石があります。
ヨルダン川を渡ったできごとは、私たちが「キリストと共に死に、キリストと共に生きる」ことの象徴と見なされています。
イスラエルの民は、荒野でなんと幾度も幾種類ものできごとにつぶやき、反抗し、モーセを悩ませたことでしょうか。その荒野の生涯は、ヨルダンの底に立てられた石が、それがどのようなものであったかしっかり記念し、ヨルダンの底に沈め・・・キリストと共に死に・・・罪が二度と復活しないように葬り去った事を記念します。ヨルダン川の底から担ぎ上げた石は・・キリストの死・・によって与えられる新しいいのちに生きる祈念碑です。
その十二の石の記念碑のあるところで、ヨシュアは民に割礼をほどこしました。
「民のすべてが割礼を完了したとき、彼らは傷が直るまで、宿営の自分たちのところにとどまった。すると、主はヨシュアに仰せられた。「きょう、わたしはエジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた。」それで、その所の名は、ギルガルと呼ばれた。今日もそうである。」(ヨシュア記 5:8-9)
割礼は「肉」すなわち私たちの内にある古い人の死を意味します。荒野ではエジプトで染みついたものがついてまわりました。例えばモーセがしばらくいないと、すぐに金の子牛をつくって拝んだことがその好例です。それが「エジプトのそしり」です。
「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」(コロサイ 2:11)
私たちの生涯もまた、キリストの死に結びあわされて荒野の不従順がしっかり葬られ、ヨルダンの川底から運んできた記念の石、キリストのいのちをもって勝ち取られた新しいいのちに相応しいものでありますように。そしてエジプトの臭い、この世の臭いが抜けさり、キリストの香りのする生涯でありますように。
イスラエルの民には目に見える記念碑が「子どもたちに教える」材料になりましたが、私たちには目に見えるものはありません。私たち自身の内にこの記念碑がしっかり立っている時、すなわちキリストと共に死にキリストと共に生きている時、それが「子どもたちに教えるしるし」となります。
自分の子どもに信仰を受け継いで貰いたいひとは、自分の内にこの12の石が立っていなければなりません。