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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-122  —

山本 咲


サムエル記Ⅱ 16章


 先月から続いているアブシャロムの反乱によってダビデの地位が危ぶまれるような出来事が起こってきている。私たちはこの聖書箇所から何を読み取るべきだろうか。聖書は決してだらだら事実を列挙しているのではない。何かを伝えようとし、捉えてほしいという意図をもって描かれている。だからこそこれを読み解かなければならない。サムエル記の記者はこのところから何を書き示そうとしたのか。特出したことがなければ、この部分も「アブシャロムの謀反はダビデの勝利によって終わった。しかし彼はそのことを悲しんだ。」という程度で終わっても構わない。しかし、ここには詳しくその時の情景が書かれている。ここから何を読み解くのかが私たちに求められているのである。
この章では多くダビデの心が吐露されている。前半部分はメフィボシェテの僕ツィバとダビデのやり取りである。ダビデはツィバが本来のメフィボシェテの思いとは異なったことを行い、自分に利益をもたらそうとしていたことに気付くことができなかった。記者はこの事実からダビデが動揺によって敵味方を判断することができなくなっていることを私たちに示している。私たちはダビデに対し信仰者として完璧だという印象を持ちやすい。しかし実際は彼であってもこのような状況を前に動揺し、誤った判断と行動をしてしまっている。記者がこの事実をわざわざ書いたのも、何らかの意図があるといえるだろう。すべての人が自分の本当の思いを隠して行動していることをダビデは承知している。だからこそ疑心暗鬼に陥り、愛している親友の息子のことすらも僕の言葉一つで信じられないような状態に陥ってしまっている。このような状況から考えると、逆にその後に取り上げられたシムイの存在が全うに書かれていると感じられる。彼は国がダビデによって栄え、サウル王家が跡形もなく消えていく中でその心の声をまっすぐにぶつけている。諦めることなく、当時から抱き続けたその思いを、彼は正々堂々とダビデに対し提示し続けた。命の危険があったことは間違いない。それでも彼は口を開かずにはいられなかったのだ。そんな彼の姿を見ながら、ダビデは止めなかった。彼にはその権力も、実行するだけの力や命令を聞く部下もいたのに彼はそうしなかった。なぜなら彼がこの問題が起こった原因は自分にあることを承知していたからである。呪われなければならなかったことも、彼自身の息子が謀反を起こしたことも、すべての原因はダビデにある。しかし、だからこそ、神は問題を取り上げながら、この出来事を通して、もう一度ダビデとの関係を立て直そうとしているのである。事実ダビデはその神の御心を誤ることなく受け取った。そしてもう一度、神の御手に自らのすべてを委ねることを決めたのである。
この章の後半はアブシャロムに視点が移る。アブシャロムは自らのもとに来たフシャイに対し、かろうじて疑いの念をもって臨んだが結局はその媚び、諂いを見抜くことができなかった。それは彼自身の信じたいという思いのゆえである。彼には自分の行動に確信を得られるものは何もない。彼自身が不安定な中にいる。ダビデにとって確信を得られるものは神の存在であり、その憐れみと愛と義である。それに従い、信じ歩むことが彼にとって重要であり欠くべからざる行動の指針であった。しかし、アブシャロムにはそれがない。それゆえに彼は自らの行動に、最終的決断の拠り所が無いのである。それは本来信じるべき神以外の所により頼む人間の姿が描き出されている。信じるべきは神だけであり、それ以外は結局、心の奥底では確信に至れずに終わるものになってしまうのである。だからこそ彼は、良きに導かれるはずの信じるという行為で自分を貶めることになってしまったのである。
この二人の神に対する姿の違いからダビデとアブシャロムの結果はすでに見えている。アムノンを殺したのはアブシャロムであるが、ダビデがアムノンを放置したこともまた、その原因を作ったのである。彼らは同じく神の前には罪人なのである。だからこそ、聖書がこの出来事の結末として語るのはアブシャロムの敗北とダビデの勝利であり、その勝利は、ダビデが、神に対し最後には遜り、ことの結末を委ねているゆえに与えられていることが示されているのである。
私たちは自分の罪が軽くなることを望んでしまいやすい。「相手が悪くて、自分が正しい」「原因を作ったのはあの人だ」と理由をつけて、自分をその罪から逃れさせようとする。しかし神の前において私たちは同等に罪人である。そこには罪の大きさは関係ない。神は全ての罪を裁かれるが、その贖いを成しえるのはキリストの血以外ないのである。神が救いの道を用意してくださっているのだから、私たちにできることは何だろうか。自分の罪を放置して相手の罪を指摘することではない。自らの罪を認め、神の前に遜り悔い改めることが最も大切なことなのである。そして自らのすべてを神の御手に委ねるのである。神は私たちを必ず最善へと導かれる。ダビデは神に命が取られるならまたそれも良しとしたであろう。しかし、そこに同時に、彼自身が生き永らえることを望み、そこから救われることを求めていた。神はその声を聴いてくださった。なお私たちも罪赦されたものとして遜り、神の御手に頼りつつ歩み続けていきたく願う。


Q:11節と12節「ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」ここのダビデは冷静に対処しているように見えるのですが、悔い改めによってこのような言葉が出たのでしょうか。

A:そのとおりである。そして同時にこれは共にいる者たちへのメッセージでもあった。ダビデと生死を共にしようとしている者たちの前に彼はこの言葉によって自分が何を信じ、何によって歩んでいるのかを表そうとしたのである。もしこの言葉が当てつけのようなものや、開き直ったようなものであったのならば、彼に従うものはいなかっただろう。またもし、彼に従うものが神の御心を軽く扱うならば、「こんな状況でもまだ神なんて言っているのですか」と離れてしまったと考えられる。
私たちの信仰の継承というのは、このサムエル記のダビデと共に歩んだ者たちと同じように神が召してくださったものに従い歩むということなのである。この後のサムエル記、列王記にも描かれているのは王であり、その王の采配によって民や周りの者がどのように生きたかということである。ことによっては多くのものが揺れ動いているという事実が語られている。王の価値観によってその時代のことが決まり、神への姿勢も変わる。私たちもこの時代の中で教会というものを大切にしている。もちろんその人が教会をどのように考えるか、その価値観も違う。「この教会じゃなくても神は信じられる」「この教会は私には合わない。あの先生、教会の方が私にはあっている」など思いを持つこともあるだろう。しかし私たちは一つの教会に根差すことを大切にし、そこに神の召しが働かれていることを信じている。それも一つの聖書信仰であり、私たちの信仰の表し方である。神が私たち一人一人を召された場所でどのようにその御心がなされるのか、それは歩んでみなければわからない。だからこそ、神の最善がなされることを信じ、この道を歩み続けたく願う。


Q:ダビデが自分の過ちを悔い改め、立ち返るに至った決め手は何でしょうか。

A:私たちの信仰生活も色々な要素によって成り立っているように、これが決め手と言い切れるものではないだろう。ダビデにそのようなものがあったとしても、どれとは一概に言えない。しかし、私たちも同じように日々の生活の中で考えさせられる出来事が起こったときに、神に対する姿勢を改めることや、遜ってもう一度歩み出しをさせていただくことがあるように彼もまた、この一連の出来事の中で立ち返るに至ったのである。私たちは自分自身が物事を客観視して考えることができるかどうか、自身の行動をもう一度思い起こしながら、この時にはこのような思いを持ったとか、だからこのような行動をしたということを客観的に吟味することができるかが重要である。そうしていくと、自分の考えや、感情がどのように動いているのかよくわかり、時には悔い改めの時も与えられるのである。しかし、人によっては吟味しなければならないのにもかかわらず、容認し、自らの思いを忘れてしまうことや、改ざんしてしまうことがある。その結果、本来ならば悔い改めが与えられるべき出来事も無視してしまい、放置してしまうことになるのである。
信仰は私たちの思いを一足飛びに変えることも事実ある。救われて、180度人間が変わるということもよく聞くだろう。しかし、そればかりをいつも期待しているようではいけない。救われた私たちが信仰者として歩むときには日々の積み重ねの中で自らの信仰を吟味していくことが必要なのである。サムエル記の記者がこのように聖書の中で事実を詳しく取り上げているのは、ダビデが当時どのような思いでいたか、そこに神がどのように働かれていたのか、扱ってくださっていたのかということを示すためなのである。そして記者は同時に私たちも神によってダビデと等しく扱われていることを表しているのである。私たちも同じように神や人との交わりの中で、感謝や、悔い改めにつながるものを見出していかなければならない。そうでなければ、結局私たちに成長は与えられず、神との交わりも停滞するようになってしまう。特に悔い改めに関しては、放置することによってまた同じ過ちを繰り返すことや、その時は悔い改めたといってもその人の中に残らないということがある。どちらにしても成長も変革もできないということである。堂々巡りで一向に解決できずに終わる。愛するということも同じである。相手を愛そうと思っていても、その時の感情に任せて動いてしまうことや、以前犯した過ちを改善せずにいることで相手のためにと行動することができなかったりする。神の愛に気付き感謝し、愛を実行しようと思っていたのに相手の言葉に怒って終わってしまったということがないだろうか。私たち人間は相手の態度一つで愛の行為を簡単にやめてしまうことも少なくない。しかし、そのようなことを思う時は私たちがどれほど神に愛され、赦されてきたのかということをもう一度考えてみなければならない。神はどれほど愛しているものに裏切られてきただろうか。それでも変わらず、神はなお私たちを愛そうと声をかけ続けてくださって、愛をもって扱ってくださっているのだ。にもかかわらず私たちは、相手の行為や言葉に感情を左右され、相手にたいして愛を表しつづけていることができない。このようなものであってはならない。気を付けなければ人間は結局、神の愛を忘れ愛し方を忘れ、罪を忘れ堂々巡りを繰り返す。そのような自分の悪さをもう一度認識しなければならない。
この一連の出来事は神とダビデの間で行われているが、間に預言者という人が介入する場合もある。同じように現在も罪の悔い改めの際に牧師にそのとりなしをしてもらう時があるだろう。それは苦しみを伴う。なぜなら自分の恥を他者にさらさなければならないからである。だからこそ、その相手の前に告白することをためらう時もあるだろう。しかし、これは一面必要なことである。なぜなら、それだけの思いがあれば私たちは忘れないからである。そして、自らのすべての問題をさらけ出して悔い改めて初めて、心からすべてが神に明け渡されたものになる。しかし、自分でただ反省して終わってしまい、誰かに悔い改めることもせずにいる。その様な中途半端な形では結局何も残らない。私たちの中でいつの間にか忘れ去られ、繰り返す過ちへと繋がってしまうのである。


Q:先日のメッセージの中で「絆(ほだ)される」ということが語られていましたが、私はそこに積み重ねられた絆(きずな)があり、神が供えられた時があったのだと感じました。また、そのところで神の奥義を会得できるかということが私たちに求められているように感じられたのですが。

A:神の奥義は非常識と思われることもあると語った。しかし、本来はそう(常識)であるべきものなのである。中風の人を助けるために屋根をはがすことも、それほどまでに相手を愛することが常識になるべきことなのだ。これは神が目指されているものであり、私たちに願われていることである。にもかかわらず、私たちはどうしても世の中の常識にとらわれやすい。中風の人が救われるためには何をおいても優先すべきだったことと同じように私たちの周りの者が救われるためにも私たちは何をおいてもそのことを優先しなければならないだろう。私たちが特に大切にしているのは自分たちの子どもの問題である。子どもの信仰のために親が何をおいても優先するのは当然でなければならない。もちろんそれで実際信仰の継承がなされるものもいれば、逆にそこまでしても神を捨ててしまう場合もある。しかし、今がその時というところを逃さずに行うことが大切なのである。私たちの教会には母子室がない。また先日語ったようにこのコロナ禍であっても幼子一人のために教会全体がリスクを負ってリモートではなく教会に集い、交わりを持つということをしたりもする。そのどちらも緊急性はない。しかし、愛する子どもたちが救われるために私たちが行っているこの世の中にあって非常識と呼ばれる行為なのである。中風の人が屋根から釣り降ろされたこの出来事であるが、中風というのはいわゆる脳の病気による寝たきりの状態であり、緊急性はない。中に入れなかったからと言ってイエス・キリストが出てくるのを待っていてもよかったのである。しかし、彼らは屋根をはがしてまでも、今すぐにイエス・キリストによってこの人が救われることを願った。その愛と信仰のゆえにイエス・キリストはこの人を救ったのだ。
私たちも信仰を継承するためになら仕事やそのほかの生活を横においてでもこれらのことを行うべきではないか。家長、母親、子どもたちが一緒になって家族で信仰をもつということをなお願いつづける。中風の癒しには、彼ら(親)の信仰によって中風の人(子ども)が救われることがありうると語られている。子どもが自身で信仰をつかみとることを求める人もいる。しかし、聖書には親の信仰によって神が子を救われることがある。信仰は救いは何とかなるというものではない。そこにどれだけ命をかけて生きるかなのである。


Q:へブル人への手紙11章13節から16節のところのとらえ方なのですが、私たちの地上の生涯は旅路であり、天の御国にたどり着くということが語られているととらえてよろしいでしょうか。

A:旅人のとらえ方はそれで間違いない。もう一つの寄留者というのは、私たちの出所は天国であり、いるべきところも天国だから、私たちは現在異国の地に来ているということが語られている。信仰者はこの世の人ではない。私たちは神の子どもであり、神の民であり、あくまでこの地のものではない。ということにこだわってこのところは書かれているのである。
老牧師は世的に生きることを拒絶した。神の民であるために、この国の文化ですら一つずつ疑い、言葉に気を付けた。「“お盆休み”という言葉は使わず、“夏休み”にしよう」、「“お月様”や“お天道様”なんて言わずに月と太陽でいい。様を付けるのは神様とイエス・キリスト様だけだ」と言い続けた。 約束のものを手に入れることはできませんでしたと語られているように、既に天に帰った者たちはこの地上においてそれらを得ることはできなかった。しかし、天において受けるものとして良しとした。この世の人は報いを受けることを望み、そうでない信仰者に対して苦言をこぼすが、決して信仰者が報いを受けることを望んでいないわけではない。ただ、報いをこの地ではなく、天で与えられるものとしたのだ。
またここに語られているように神は彼らの神と呼ばれることを恥としなかった。神との関係が真の関係だからこそ神は彼らを自分の民とし、恥とするのではなくむしろ喜ばれた。謙遜と誇りというものは難しいものである。しかし、神と共に歩む者には本当に遜るべきところも、逆に誇りを持つところが解るのである。信仰の人々はこの地において評価され、受ける報いを喜ばず、謙遜に生きた。そして、神がそのことを喜ばれることを誇りとしたのである。何か上手になろうと思ったら、ほかの人に混ざってやってみるしかない。しかし、最初はだれでも下手で恥ずかしい思いをしたり、上手な人に手を抜いて相手にされることを甘んじて受けなければならない。信仰者もそうである。先を歩むものや、知っているものに教わりながら、そのことを学んでいかなければならない。
礼拝の中で「絆される」ということを語っているが、本当に絆されるという関係は軽い穏やかな関係によって築かれるものではない。本気になって取っ組み合うからこそ築き上げられるのである。そのためには恥をかいてもやめないで関係を築いていく必要がある。悔しい思いや、大変な思いをしても、そこを乗り越え関係を築いていくのだ。教会はそのようなつながりを築き上げる大切なところである。キリスト教は憐れみで、愛でと言っていて相手の罪や過ちを取り上げずにいるということがある。しかし、それは憐れみでも愛でもない。ただの甘やかしであり、教える側の怠惰でもある。本当の愛は相手の過ちを指摘することであり、憐れむからこそ共に改善していく取り組みが共にできるのである。
私は教会の方々とスカッシュに行くときがある。その時に全力で向かってくる人や食いついてこようとする人に対してはやはり教えたくなる。「そういう時はこう打つんだよ」と教えてから、「あー思わず教えちゃった。教えなければよかった」と思うのだ。
うまくなりたいという思いに応えたいと思うそれが絆されるということであり、それによって教わるのが奥義である。悔しがりながら、それでいて開き直らずに行くことが大切である。そのような真剣な姿に私たちは魅せられ真の絆が生まれる。


Q:ダビデの友と語られているフシャイですが、親友と語られるヨナタンとはまた違った関係性なのでしょうか。

A:ダビデとヨナタンは幼い時期の関係であり、ある時代までのものであった。対してダビデとフシャイの関係は詳しく聖書には語られていない。しかし、友として良き相談相手であり、豊かな交わりをもつ関係であったのだろう。そしてそれは命を懸けても助けようとフシャイが思うほどの強い関係であった。また彼らの間には確かに神の存在があった。ダビデという人を捉えるとき友という関係の認識は決して軽いものではないことに気を付けていかなければならない。しかし、アヒトフェルはフシャイに対しあまり警戒していなかった。彼がダビデの友という称号を正しく理解していたならば、どんどんと手を打ってこのフシャイを退けたことだろう。しかし、彼はそのようにしなかった。彼は文字通りただの友人とフシャイを侮ったのだ。そしてその傲慢が彼を滅びへと導いた。命を懸けるほどに友であるダビデを愛したフシャイが神の手となり、結局アヒトフェルは自殺するしかなくなった。そのまま、アブシャロムも混乱に引き入れられ、このすべてのたくらみはフシャイによって破られたのである。 私は「夫婦は共に成長するという話」をよくしているが、同じように、友も互いに成長しあう者であり、片方だけが飛びぬけていくものではない。もちろんだからと言って誰かが自分を育ててくれるとは思わないことである。相手の成長ばかり求めて、自分が成長しようとしないなんてことでは互いに成長する関係すら築けずに終わってしまうだろう。私たちにはそのような人格的つながりが大切なのである。人の心を見極め、心から相手のために行動したり、行動されたり、補ったり、補われたりそのようなやり取りの中で相手と結びついていくことが重要なのだ。神、聖書、信仰を学ぶことは大切である。しかし、同時に、人を学ぶことも必要であり、信仰がどのように人間と結びつくかを考えていかなければならないのである。神は私たちに隣人を与えられた。そこに大きな意味がある。そのなかに信仰の友と呼べて、尊敬しあい、互いのために命を懸けられるような存在に出会えることを心から願う。

(仙台聖泉キリスト教会牧師)