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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-136  —

山本 咲


列王記Ⅰ 6章

 この章には神殿の建設について記されている。文字で書かれていることを実際に描くことで完成した図や形にして模型にすれば私たちはそれを見ることができる。それによって当時のイスラエルが神によってどれだけ祝福されていたのかが分かるだろう。というのは、用いられた材料から国力自体が裕福であったことが分かるからだ。ダビデの時代に他の多くの隣国と戦った際に得られた戦利品によって裕福であったことも神が、戦いの中で勝利を与えられたゆえであった。この戦いは神の戦いであり、信仰者が信じて歩んだが故の神がその信仰生活、営みのなかに与えられた祝福である。それによってダビデの後、ソロモンの時代にこの神殿建設がなされた。
 私たちが神を信じるとき、私たちの行いも神の業へと変えられるのである。そのような営みの中で私たちは具体的に神からの応答を見させていただき、そこで再び驚きや恵みを与えられる。その繰り返しの中で、本人だけではなく、それを周りで見ている者たちも祝福を得るのである。もちろんその逆もある。私たちが日々の営みに忙殺され、結局目に見えることや、世の人と同じような営みの中に浸かったような心で行うならば、いつの間にか私たちの信仰生活もただのお題目になってしまう。だからこそ私たちは自らの営みの中で十分に注意しながら、生きていかなければならない。
 今朝の早天祈祷会の中で、ある姉妹が「去年のサマーキャンプで子どもが与えられるようにと祈ったら、今年はその与えられた子を連れてくることができました。感謝です。」と祈っていた。それを聞いたとき、このことをどのように捉えるか、信仰からその事実を喜び、神への感謝の心を持てるか。それとも、ただあっさりと無関心に過ぎてしまうかである。そのような証、祈りを聖霊の語り掛けとして聞いているか、それとも、それに耳を貸さず、さらっと流してしまうか。ここで私たちの信仰が実態のあるものへ変わるか否かが決まる。
 私たちの営みの中には必ず先を歩んだものの信仰や、営み、結果を見ることや、聞くことができる。それは本来誰しもが初めて出会う経験となる出来事である。しかし、私たちは誰かの語る言葉を聞く中で、そのことを捉えさせていただきながら、誰かの経験をも自分のそれとして自らの中に残すことができる。それは神が豊かに与えてくださる知恵なのである。
 聖書記者は6章1節で480年目にそのことをしたと書いているが、それはイスラエルが出エジプトを果たしたときから数えた年数である。つまりイスラエルの建国はエジプトから彼らが神によって解放されたその時となる。彼らはもともとエジプトにおいては奴隷という立場であった。しかし、その声をきかれた神が、解放してくださったのである。私たちも同じように罪の中に奴隷であり神を知らない、もしくは知っていてもそこから逃げ出せないようなところにいた。しかし、神がイエス・キリストを通して解放してくださったのだ。私たちは誕生日を数え、その祝いをしたり、感謝を神に捧げたりするが、当時のイスラエルも神が出エジプトさせてくださったことを感謝し、記念として覚えていた。それは、神がイスラエルに新しい地を与えてくださるという約束を果たしてくださったことを覚えるための記念でもあった。現代は個人主義が強くなり、どちらかというと自分の代で事が変わらないなら、約束が果たされないなら意味がないと思いやすい。しかし、この様に聖書を見て、イスラエルの信仰の歴史をさかのぼるときに、私たちは信仰の継承の大切さを見出すのである。そして、だからこそ私たちも神が与えてくださる使命を日々全うしていくことができるのである。それは、「私たちの子孫において神がその約束を成就してくださるならば信じて生涯をかけていこう」と歩めるものとなるのだ。それができず、信仰が自分の代だけで終わると考えていると私たちの歩みは失望の中で停滞していってしまうのである。だからこそ、たとえ今苦しく、忍耐が必要な試練の中を歩むような日々であっても、神がそれを成就してくださることを信じる必要がある。それができるならば、私たちは時間を超越し、神が約束を成就してくださることを待つことができるのである。それはもちろん思いがけない時に答えが返ってくるときもある。そうならば、それもそれとして心から喜び享受していきたく願う。なお、神が与えてくださる約束が必ず成就することに感謝しつつ、日々を信仰と共に歩ませていただきたく願う。


Q:先日の礼拝の中でベテスダの池の病人の話が取り上げられましたが、病気の問題ではなく、「罪」が問題なのであるということを語っておられましたが、もう少し詳しくお聞きしたいのですが。

A:このところにおいて、聖書は病気に焦点を当てているのではなく、罪からの解放に焦点を当てている。癒しということがイエス・キリストの権威を表すことにもなっている。ベテスダの池はまるで社会の縮図のような場所になっている。池の周りに集められているのは、病からの解放が必要な人たちである。しかし、本当に重病な人たちは自分の力では池の中に入っていけないがゆえに、誰かの助けを必要としている。にもかかわらず、誰もそれに手を差し伸べることができず、結局は取り合いの場を制した人が癒されるような状況になっているのだ。病人であったその人はイエス・キリストの「治りたいか」という問に対し、「私を入れてくれる人がいない」と答えたのである。一番その助けを必要としている人に救いの手が行かないような社会。それが私たちのそれなのである。しかし、実際このことが神の手によって行われていることではなく迷信であることは聖書自体の書かれ方によってわかる。本来神の手によってこのことが行われていたのなら、そのことが聖書から省かれていることはおかしい。しかし、その所が聖書から抜かれ脚注のみに書かれているということから考えて、この出来事自体当時の迷信だったのだろう。しかし、そのようなことにしかより頼むことができない者たちがそこにいたのだ。
 これは現代においても同じである。苦しみの中にいながらも何を頼りにすればいいのか、自らの罪から解放してくれる存在がいない。本当に癒しを必要とする不治の病から解放してくれる存在を知らない人々が多いことを示しているのである。
 私たちが本当に恐れなければならないのは、私たちをゲヘナに投げ込む権威を持つ方である。しかし、人は自分の体を傷つける存在や殺すものを恐れる。病もこれと同じだ。いくら病が治っても、結局私たちの人生はいつの日か終わりを迎える。その時に罪が癒されていなければ、私たちはゲヘナに行って終わりを迎えるのである。しかし、私たちの体の病はいやされなくとも、罪が癒されていたなら私たちはその生涯の終わりの時、神の元へと行くことができるのである。
 私たちはそのように自らの罪や、関わる誰かの罪の問題を考えていかなければならない。そして罪の問題も一回救われればそれで全く罪を犯さなくなるのかといえばそうではない。だからこそ、罪を繰り返さないようにしていくことや、罪を犯したと考えるならば、それをそのままにせず悔い改め、自らを整えていかなければならないのである。その中に神は共にいてくださり、あなたを助け、聖霊によって働きかけ続けてくださるのだ。私たちはなお、自らの罪という病から解放してくださったイエス・キリストに感謝をもって、自らの信仰を全うしていきたく願う。


Q:罪という問題のことについて、先日一本杉の三浦綾子文学公演礼拝の中で、私たちには自分が気づいていない罪もあるということをお聞きしました。そこでは罪とは的外れであるということも語られていたのですが、私たちが特に注意していかなければならない的外れな罪とは何ですか。

A:福音書がよく的外れとして教えていることは、「自分は良いことをしているんだ」「神のためにしているんだ」と思いこみ、逆に罪を犯してしまうことである。パウロという人は神に喜ばれるためにという理由でキリスト者を迫害してしまっていた。彼はわざわざ、祭司長から証明をもらってダマスコに行き、そこで多くのイエス・キリストを信じる人々を迫害した。彼の行いは完全に的外れなものであったが、彼自身は本気で神に喜ばれるためにとしていたのである。信仰者として一番怖いのはその部分だと思う。自分が神のために行っていると勘違いしてしまうのだ。だからこそこの問題を恐れていかなければならない。ではどのように防いでいけばよいのだろうか。それは、私たちが周りにいる人たちのアドバイスや注意勧告というようなものを聞いていけるかという所にある。私たちの教会にも多く先を歩んだ者たちがいる。その者たちの話を聞き、恐れていくことができるかというところが重要である。私たちの教会で行われている信仰の継承はこれらのことが多く行われる。そして、そのような歴史を踏まえながら、教会の中にある弱さや足りなさを克服して、次の代に物事を進めていくことができるようになるのである。的外れなこともその中でどのように防いでいくとか、逆に、遜って神の憐れみと導きの中に自分たちをおいていくということにつながっていくのではないかと考える。その中でお互いが信仰者として相手を大切にしあいながら、罪のリスクを互いに減らし合い、忍耐しあう関係を築いていくことが必要なのである。その中にはもちろんまだ信仰を持っていない人も現れる。そんな時にも相手を受け入れ忍耐しながら、その人のために関わり、祈りあっていくことが大切なのである。それは、イエス・キリストが私たちのために十字架にかかってその命を捧げてくださったように、お題目ではない愛を私たちも全うしていきたく願うのである。


Q:昨年のサマーキャンプで質問をさせていただいた際に若い職員の方との関係について語らせていただきました。確か、癇に障るということの話からの質問だったのですが、相手の職員の方が、言い方がきつく、馬鹿にしたような言い方をすることがあるということで、質問させていただきました。ちょうど一年たってみてこの場でそのことを思い出し、この一年どうだったかと思いめぐらしていました。思い出すときに、その人の態度は相変わらずで、周りの人にも同じような対応をしていて、みんな嫌な思いをしているということが見えてきました。その中で私自身本当に嫌だなと思いながらも、どうやったら、それを気にしないで平然とした態度でいられるようになるかと日々が小さな戦いでした。始めは相手のそのような態度に対して自分がどうしていったらよいかということで小さな祈りを少しずつしていったのですが、だんだんと自分自身が変えられ、私自身が変わらなければならないと気づかせられました。先日も「トイレのベルなってるぞ!」って強く言われたときもあったのですが、その時も「ありがとうございます!教えてもらって」と言いながら、走っていくことができました。本当に聖書の御言葉を意志していくことや、礼拝のメッセージの中で語られているように、世の中で神様をいかに意識して生きていくかということの大切さを教えられているように感じています。去年そのように質問させていただいて、今年また同じこの場所にきて、昨年からどうだったからと考えることができて感謝でした。そして、メッセージに生きることとそれが具体的に私の中にどう残っているかということを実感することができました。質問ではないのですが、とても感謝でしたので、お話させていただきました。

A:そこにもう一つ加えさせていただくならば、相手の中に今あなたという人が意識されていますけど、あなたが変わって、もしかしたら相手も変わるかもしれないということに一つの真理がある。ただ、変わらないかもしれないということももちろん起こってくる。しかし、あなたと相手だけでその職場が成り立っているわけではないからこそ、その周りに共に働いている人たちの中にはあなたと相手のやり取りを見ていて、なぜそのようにできるのかと疑問をもって聞いてくる人たちもいるかもしれない。そのような営みが、実際社会や家庭において私たちの信仰を表す重要なポイントとなるのである。  私たちはそのような福音の営みが重要になる。私たちの信仰が一番育まれるのは私たちにとって困難な環境である。筋トレではないが、一番負荷がかかるときに信仰も育まれるのである。そのような状況を避けていると私たちの信仰の育みも不足を感じるものになるのだ。
 先日野球の中継である解説を聞いた。それは元ピッチャーの武田という人で野球選手の筋トレについて語られていたが、プロ野球選手はオフで筋トレして体づくりをしてシーズンを始めるが、試合をしている中でも筋肉が少しずつ落ちていると語っていた。そのために試合と試合の合間に筋トレをしなければならないのだそうで、それを怠るとシーズンが終わるまで筋肉や、スタミナが持たないと語られていた。試合が続く中でもきちんとトレーナーのアドバイスとその後のマッサージや体のケアー、休養を取っていくことが重要なのだそうだ。筋トレと信仰を一緒にしてしまうのはと思う人もいるかもしれないが、日々の営みの中できちんと自らを建てあげていくことが重要なのである。そして、それはもちろん厳しい時や、困難に思うことが多い。しかし、そのようにしていることが信仰者を支えていくとともに、周りの人に対して地の塩世の光となっている。神が与えてくださった営みとしてなお続けていっていただきたい。そのような人の元には神が必ず慰め手としての隣人をそこにおいてくださる。信じてなお、来年も質問していただければ幸いである。


Q:ローマ人への手紙14章14節を今日の朝デボーションで開き、このところで躓きということについて考えさせられました。私たちはこの人に与える躓きや、自分自身が何かを誰かの行いや物事を見た時に抱える躓きというものはどのように考えていったらよいのでしょうか。

A:今その聖書箇所を全部読むことができないのですが、ここは偶像に捧げられた肉に関しての話だと考える。パウロは新しくキリスト者になった者たち特に、ユダヤ教からキリスト教信者になった人にとって汚れの問題は重要なことであった。新約の時代というか、異邦人の中でキリストを信じて救われた者たちは普段食する肉のほとんどが、どこかの偶像に捧げられた肉だった。そしてその後、その捧げられた肉が市場で売り出されて多くの人が買っていたのである。だからこそ、本当に汚れということを気にする人は農家に行って直接買うことしか方法がなかったのである。しかし、それがすべての人ができたかというとそうではなかった。だからこそ、このような問題が取り上げられているのである。
 話は変わりますが、例えばイスラム教の人たちは豚肉を食べないので、世界に広がって今イスラムの人たちが旅行するようになったら、これには豚肉は絶対に入っておりませんと書いてあるもの、それが確かでないと自分の戒律に引っかかり、自分の宗教性に引っかかるということがあるため、食べられないということが出てくるのだと考えられる。もちろんその厳しさは所属する宗派によっても変わってくるのかもしれないが、そのようなことが起こってくる。私たちの信仰生活の中においても、当然強調する決まりという部分とそうではない部分がある。私たちの教会はある一面極めて強い信仰に対する行いや、営みに対する注意点というものが70年の歴史の中で築かれているところがある。その一方でこの部分は良いでしょうとか、そこで信仰の「ある」「ない」を量らないように注意していきましょうということもある。それはキリスト教文化の違いであり、教会の違いということになる。
 私たちの教会に結婚してきた姉妹は最初の内、「えっこの教会はお盆と正月時期に日曜日礼拝がお休みになるんですか?では私は日曜日どこで礼拝したらいいんですか」と。それは当時姉妹の赤裸々な信仰告白だったわけである。教会は日曜日に礼拝をするべきで、その礼拝の場所を私から取り上げるのですかと。それは今一般的に多く言われているわけだが、こうやってこの教会で信仰生活を送ってみると、姉妹たちも「盆と正月はせっかくなので休ませていただいて」というようになっている。それはそれが楽だからとかそういうものではなく、その休み以外の時には真実に礼拝を守って、多くの伝道活動も行っているからである。逆に常に日曜日の礼拝の場所として開放されているけれど、どうぞ好きに礼拝来てくださいとか、究極それは強いるところではなく、お仕事とかどうしようもないならしょうがないっていう場合もある。ただ私たちの教会は仕事ならしょうがないっていう部分もあるが、それで終わらない。では何とかそれを克服していくためにどうやって仕事に勤めていって、日曜日の礼拝を獲得していくか、木曜日の祈祷会を獲得していくかっていうことになる。そうならば、何も日曜日の礼拝がお休みであること自体は私の信仰の躓きにはならないとなるわけである。その様に教会が個々にもっている個性のようなものが当然出てくるのである。パウロも当時そのようなことをローマの教会や、新しくできたキリスト教の中でどのようにして、神を畏れて正しく歩むべきであるかということや、躓きを与えないようにということを含め、様々な問題を一つ一つ整えていったのである。私は結婚のためにお嫁さんが来たときに、とにかく旦那になる兄弟たちにお嫁さんの味方になってあげなさいと教える。それは、もともといた自分の家から出て、他人の家庭に入ってくれるのだから、旦那さん側の両親との関係なども含め、様々なところで生活文化の違いで問題が起こってくるからである。場合によっては涙するくらいその違いで葛藤する人も出てくる。だからこそ、旦那さんは見方でいて、奥さんのいうことを理解して助けてあげないと、奥さんが躓いたままずっと行ってしまい、私の信仰とは違うとか、私の今までいたところとは違うと家庭自体その様な印象を残していくようになる。そうするとそこに生まれてきた子どもたちがそのような混乱を抱えていかなければならなくなる。だからある夫婦には、旦那さんに絶対に奥さんの見方でいなさいって語った。それでも難しい問題や、なかなか折り合いがつかない問題は牧師のところに来て聞きなさいと言った。そして、私のところに聞きに来た問題はほぼ全部「はい。奥さんの言うとおりにしてあげなさい」と語った。ただそのように言ってきた私が唯一奥さんの希望を聞かなかったのは「日曜日に礼拝に出たくありません」と拒否したときで、「それはダメです」と私もはっきり言った。姉妹は初めて私にダメですって言われてしまって驚いたそうで、今まで何でもいいと言ってもらえたから、きっとこのこともいいといわれるだろうと思っていたら、そうでなかった。だから彼女はそこでもう一度私はどのような信仰をもってこの主人と一緒に家庭で生きていくのかということを考え直すきっかけになった。質問の答えとは違うかもしれないが、具体的に言えば、そのようなことを思うがゆえに、「躓き、躓き」とそこだけに意識を集中してしまうのではなく、どうやって相手の心の躓きに対する意識を取り除いていけるかということが重要になる。だからこそ実際今まで、躓いている人たちがいたという事実をみて、私たちは恐れ畏みながら歴史から学び、どのように進めていくか、そのような人たちから躓くような石を取り除けて、その人が歩んでいけるようになっていくことができるかと取り組んでいるのである。私と盡子先生が携わった家庭は6組ある。それが私たちの結婚を導いた家庭で、その人たちはそれぞれ違うものを持っていた。ただ、旦那さんに言い続けたのは先ほど語ったことである。結果は良かった。
 実際この私たちの持っている文化というものに他から入ってくるということは求道者においても同じことが言える。そのような人たちにどのように真実に接していくことができるかということが求められているのである。関わる側が、信仰的に聖書知識に優位であることは当たり前である。だからこそ、その人格を愛していくということを祈って行うべきである。大切にしていくことを願い、迷っていたり、保留中というような中にいる人たちが目の前まで来たならば、どの様に真実な形で神を畏れるということをその人格が始めていけるかということを共に考え、関わっていかなければならない。それができるように教会の中で、ある人が本当に遜って「そのことを願っているんです」っていう時に誰かが賛同して、そのなかで教会に広がりが出てくるのである。このような営みをしながら、福音が私たちの教会の中で豊かになされていくことを願うのである。


  Q:幼い息子が少し前に遊んでいた時に、彼がやったことで私の指を挟んでしまって、そこで祈ってとお願いしたのですが、初めに「イエス様」と祈り始めていたのを聞きました。家庭や教会でお祈りするときにも「神様」と祈って始めていたのに、息子がそのように祈っていて、お祈りの際には「神様」に祈るものであると思い、少し動揺しました。聖書のお話などを聞いていて、息子の心の留まっていたからこそ「イエス様」と出たのかなと思うのですが、それ自体はすごく感謝でしたが、どのようにするべきなのかと考えてしまいました。どのようにすればよいのでしょうか。

A:私はあなたが敏感にそのことを捉えたことが重要であったと思う。そのような出来事に心が留まるかどうかというのが重要である。というのは、それが信仰において最も大切な部分なのである。今後も様々な問題が出てくるが、その時に私たちが霊感、聖霊からの語り掛けに心が留まるかどうかということの方が問題なのである。その後はこうやって質問するとか、祈り待ち望みながら、どうすればいいのかとその問題に取り組むことができる。しかし、鈍感であるとそのような問題がちっとも気にならずに通り過ぎて行ってしまう。それは霊的な問題に限らず、子どもに関する一切のことで起こってくる。もちろん過保護や、過干渉であってはならないが、以前家庭集会でも語ったように無いものをあるものにすることは難しい。動き回る子を静かにじっとさせておくことよりも、まったく動かない、考えない子に考えさせ行動させることの方が難しい。というのは私たちの感覚の中でそのようなことを得られるならば、あとはコントロールするだけでいいからこそ、幸いなのである。
 小さな子どもが「イエス様」と求めて祈ることは良いことであるように思う。もちろん時を選んで、その祈りを教えていかなければいけないときも来る。私たちは天の父なる神に祈り、イエス・キリストの御名によって祈ることでその祈りが成立する。ただ神が働きかけて小さな命に祈りの促しをしてくださっているということも大切にしていきたい。その中でだんだんとその祈りを整えていくことが重要である。
 親はその時を捉えて、教え、戒めていくことが神から与えられた使命である。だからこそ、その子どもに必要な時を捉え、時には厳しいことも言いながら、その子どもを育てていくのである。それが愛するということであり、その人格を神より預けられたものの使命なのである。なお愛する人格と深いかかわりを持っていっていただきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)