同労者

キリスト教—信徒の志す—

Q&Aルーム

—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-130  —

山本 咲


サムエル記Ⅱ 24章

 サムエル記の最後の章に当たるこの箇所もまた本書の付録である。これもいつの時期に起こった出来事かは分からない。
最後に取り上げられているアラウナの打場は別名モリヤの山である。この場所はアブラハムがイサクを捧げたところであり最終的にイスラエルの中心地となる神殿の場所、イエス・キリストが十字架にかかられ、贖いを全うされた地となっていくのである。 話を戻すが、このところでダビデは国力を知ろうとして人口調査を行った。ということは彼の治世の初めの時期ではないであろう。ある程度安定してきた時期であることは間違いない。
この時系列とは別に取り上げた本書の記者はどのようにして神が救いの御業を成し遂げたのかを関連付けるためにここにこの記録を取り上げたのである。
1人の人の救いがどのようにして行われているのかということがここからわかってくる。神はある個人の救いのために、全人類に対して御手を伸ばされる。私たちは神を信じる中でどのようにして人を救おうとされているかをその近くで見させていただくことがあり、私たち自身もその働きに身を置くことがある。「神を愛しその隣人を汝のごとく愛しなさい」と述べたイエス・キリストに倣い、人を救いに導こうと取り組むのである。もちろんそれは一人の人間個人の限界の中で行われている。私たち自身が、いつの間にかこのぐらいでいいだろうという範囲に収まってしまうのではなく、神の御計画とは、その中でどのような役割を与えられているのか考え、思いをはせることができたら幸いである。その中で神の導きによって私たちはその使命を果たすことができるのである。
章の初めにイスラエルが罪を犯した。ということがまず書いてある。そしてその後ダビデが罪を犯すということが行われ、結果としてその裁きはイスラエルに行われた。この箇所を読むときになぜ個人の罪が民に問われているのかと思うだろう。これは神の支配の中の王政であり、主権者は神である。この現代においてそれを理解することは難しいが、先月のダビデと三勇士との間の一杯の水を巡った出来事もまたそうであったように神の意志が人を通して表されているのである。
今は、この国は法治国家として法に対する束縛はあるが、人の思いに対する束縛はない。だからこそ、その域をになう神の存在が捉えにくくなっているのである。しかし、このことを悟っていくのは一握りの人に与えられた権利ではない。それを求める全ての人に与えられているのである。私たちの思い、感情、心に作用し、その行動を良い意味で制限し、促進させるものとなるのが神の存在なのである。
私たちは少数であるがゆえに、この日本の文化との違いの中でその価値観が浮き彫りになる。それは一面生きにくさも出てくるが、私たちの信仰を表す重要な機会となっている。
神はイスラエルが失墜していることに憂慮しておられた。だからこそ、この出来事を通して神の権威を明らかにするとともに、その罪に対する罰であっても、悔い改める私たちを見ていてくださり、憐れみ豊かに赦されると述べているのである。
ここには神の憐れみの実現が表されている。そしてこれは後のキリストの十字架の救いの予表である。神の憐れみはすでに罪人である私たちに罰を与え、すぐに滅ぼし除くのではなく、絶えずその救いを願って忍耐しておられるのである。
ダビデはこのような状況に置かれながらも、自分が行った罪に対する悔いがあり、悩み、苦しみ、最終的に神の憐れみのもとに遜り決済を受けるようになる。それゆえに、神の大いなる贖いが最後になされ、それが神殿となり、神との交わりの場が築かれ、イエス・キリストの十字架と共に私たちの救いへと繋がっていくのである。この箇所はこの後に取り上げられていく列王記へと繋がるステップを踏んでいる。
列王記では王の行動とその情勢が取り上げられながら、王国がどのようになっていくのか、神が御手を動かされるということがどのようなことなのかが表されているのである。
この章は、サムエル記の終わりでありながら、次に続く列王記の予告のようなものにもなっているのである。


Q:今日取り上げられた箇所の中で、主が人口を数えよと言いながら、それがなぜ、彼にとっての罪になったのでしょうか。

A:神が導いたのになぜ罪に定められなければならなかったのかというよりも、ダビデがそれを所望したと考えるのが妥当である。そして、それに対して彼は罪意識を抱いたのだ。彼は国力を数えることを通して自分の力を確認したのである。それは今まで数ではなく、神の力で戦ってきたダビデたちにとってふさわしくない行動である。そして、人間は数えて、満足した瞬間にその満足感に絶望するのである。ダビデも同じで、数えて満足してしまったことに腹を立て、それを見ておられる神に対し、恐れを感じたのである。
まるで信仰者が信仰者であるはずなのに、注意してきたのに、なぜここでそのようなことをしてしまったのかと思う瞬間と同じである。それは誰しもに起こりうる。
神がそのようなことを考えることを許された。神は全てのことを知っておられるが決して人間が行うことを全て止とどめることをされない。そしてその出来事はどの段階であっても神の決済が行われている。よく「神はなぜこの戦争をお許しになったんですか。人が殺し合う戦争を許される神なんて神じゃない」という人がいる。しかし、それは神が全てのことをとどめておられないゆえに起こってくることである。この箇所を見て、神を批判する人たちもいるが、それもおかしいことである。私たちの信仰を変な意味で暴露しないようにしていくべきである。私たちが聖書を論ずるときにそのようなことを考えておかないと、変な方向に話が行ってしまう。それは正しくないのである。


Q:礼拝のメッセージの中で、「主と私」の関係性が希薄化するのを恐れなければならない。ということを語られましたが、ダビデと神との間にも関係の希薄化があり、そのようにしてことが起こってきたのかと思ったのですが、そのように捉えてよろしいでしょうか。

A:そのように結び付けることよりも、あなたが学び、知識を得た際には自分の信仰告白と結び合わせていくことが必要である。聖書の言葉を書いてある通りに読まなければならないということもあるが、書いてある通りなのでと読み解くのではなく、そこから、私たちの信仰感や神感を用いて読み解くことが必要になる。あなたにとってこれは子どもたちとの関係の中で重要になってくる。子どもたちは関心を持った時や、自分の思いを果たそうと思ったときに両親の抱いている神に対する誤った理解や、誤ったとらえ方を持ち出してくる。
ダビデはこれから何をするべきかということを確かめるために国力を数えた。それは一般的に必要なものであった。ということは彼にとってこのことは国力を数えた正当な理由になるのだ。しかし、その本心には何があったのだろうか。今まで神と共にということを信仰によって語り、その神の御力によって勝利を収めてきたのにもかかわらず、自分の力、功績として量ってしまったのだ。彼自身が自分の心を見つめなおしたときにこのことが大きな罪であると捉えたのである。
親は子どもたちに与える影響のウエイトが大きい。だからこそ信仰をもって聖書の言葉を読み解いていくことができなければ、誤ったとらえ方を通して、子どもたちに悪影響を与えることがある。
忙しいこの世の営みにあって霊性や宗教性はどうでもいい様に扱われやすい。それは大変危険なことであり、危うい状況である。イエス・キリストは私たちが世の光であり、地の塩であるということを望まれている。塩とはきよめにも使われるものである。この地をきよめるために遣わされていると捉えていくべきなのだ。しかし、その役目を与えられている塩が塩気をなくしてしまったら、地をきよめることができなければどうだろうか。投げ捨てられてしまう。このことも捉え、なお信仰をもって大切な人格と共に歩み続けていただきたい。


Q:聖書日課のマルコの福音書1章を読み、イエス・キリストがバプテスマを受けられたのちに11、12節にあるように祝福とその後に荒野へと追いやられたことが語られています。救い主としてお生まれになり、成人され、バプテスマを受けたらすぐこの荒野での40日間を過ごされたと全体的に展開が早いように感じられたのですが。

A:時間の経緯がどうなっているかということはあるが、そのすべては押さえておくべき出来事だったといえる。イエス・キリストご自身がどれほどの存在であったかがこのところに表されている。私たちは何をもってキリストを信じるのだろうか。キリストが公生涯の中で自らについて語りながら、旧約の預言を成し遂げ、その先に十字架での救いを通して、自らの存在を明らかにしている。それを読み解くことが大切なのである。しかし、どうしても私たちはキリストが子ども時代に何か奇跡を起こしていたとか、そんな時から神童ですでにそのような存在だったのではと思いたくなる。しかし、それは大切なことではない。大切なことはキリストは神の独り子として聖霊によってマリヤの胎に宿り、お生まれになって人生を始められたということである。決してキリストは成人した状態で天から下られたわけではない。そこが重要なのだ。そしてこのところから捉えられる大切なところは公生涯が始まってまず初めに行われたのがバプテスマである。それによって、聖霊がハトのように下ったのである。これによって聖霊が宿られ、父なる神の御意志が表されて公生涯が始まるのだ。そのような前提があってからイエス・キリストは荒野の誘惑に向かわれたのである。そして、預言者が語るようにイエス・キリストはその一つ一つの出来事を大切に歩み成就されたのである。
またどうしても荒野の40日間は試みに焦点が当てられやすいが、実際の試みが起こったのは最後の時である。それまでは備えと祈りに充てられていた。神でありながら、人間であるキリストは人としてこれから起こってくる試みを退け、働きを全うしていくために備えの期間を設けられたのである。聖書はキリストが行動を起こされた際に「聖霊が導かれた」ということを語っている。この言葉にイエス・キリストの行動のすべてが、神の御心を成すために行われたことが表されているのである。ではどのようにしてその御心を知ったのだろうか。それは祈りである。イエス・キリストはたびたび祈りの時、静まる時をとっておられた。それによって神の御心を知ったのである。祈りとはとても重要なことである。話は変わるが祈りという形態で子どもを律するということもある。愛するということは大いなる犠牲を伴う。その犠牲が、子どもや人々に対してインパクトを与える。そのようなものをもって見えないところで祈ることや、その人との会話の中でニーズを聞き、その人を祈り導いていくというところで犠牲を払っていくことが私たちには求められているのだ。
イエス・キリストは人間としての束縛を受けられたという事実を私たちは見出さなければならない。決してすべてをご存じで、なんでも初めからわかっているようなスーパーマンではない。イエス・キリストは人であったが、祈りという神との交わりを通してすべての行動を神の御心のままに行った人である。それゆえに罪を犯すことなく人生を全うされたのだ。


Q:今礼拝で神の決済ということが良く取り上げられていますが、私たちはどのようにして決済の結果を知ることができるのでしょうか。ダビデが王になるまで20年かかったように、神様との関わりを密に行っていた人でもバテ・シェバの問題で罪を犯してしまいました。
バテ・シェバの問題はダビデの欲の故に起こってきた罪ですが、なぜ彼はこれまで関わりを持っていながら、このような罪を犯してしまったのでしょうか。

A:まず神の決済について語るが、私は礼拝の際に神の決済という言葉を強調した。私の説教は、ある言葉に対する共通の認識を持つようにすることで分かりやすく、イメージできるようにということに取り組んでいる。その一つとして今回は神の決済という言葉を使った。
端的には、誰かが行った決済を納得して自らのものとすることができるかということがまずある。その誰かとは神である。ということは神がお決めになったことをそのまま受け入れられるかということが問題なのだ。私たちは自分で決済しているようであって、実際は神がその決済を成されているのだ。だからこそ私たちはその決済を心から受け入れていくことが必要であるということを語った。つまり、私たちには実際何一つ自分の力で行っているものはない。自分の命でさえ、その終わりは神がお決めになりその生涯を清算して下さる。この地上で行われていることは全て神の手にある。私たちはそのことを真の意味で捉え、自らに起こってくる出来事を扱わなければならないのである。 ダビデの経験は私たちの想像以上のものである。彼は神の御力を大いに認識する機会があっただろう。ゴリアテとの戦いも、サウロから逃げているときも、その先の多くの戦いも、すべて神の御手によって救われている。しかし、それでもなお彼は罪を犯してしまった。そのことを捉えるなら、やはり人間は弱いという所なのだろう。しかし、この出来事は直接的にあなたに関係はない。あなたがどのようにこの箇所を読むのかが重要である。彼のような信仰者がなぜそこまでに陥ってしまうのか、ということは「誰でも罪を犯してしまう」のではないかととらえるのはおかしいし、それによって人の弱さを強調して、誰でも罪を犯してしまうのだと簡単にそれを前提に考えるということもよくない。またそのことによってほかの人格が巻き込まれるということが当然ある。親の罪や信仰態度が子どもに影響するのは当然であり、そこに巻き込まれた人が、直接的にキリスト教に対する認識を変えてしまうこともまた起こりうる。
これから特に求道者を導くにあたって私たちは多く人の罪を見ていくことになるだろう。しかし、それは相手を判断する材料ではないし、それによって自分が相手を卑下するものにもならないように注意していかなければならない。そうでなければいちいち相手の罪に驚いていなければならないし、そのことをもって相手を判断してしまう。しかし、実際はそのようなことではなく、それが赦されること、そのような罪をも悔い改めた時に神は赦してくださるのだと感謝をもってその恵みを受け取ることが重要なのである。


Q:今教会学校で幼稚科だったり、乳児科の子どもたちと関わる機会があり、「お姉ちゃんなんだから」「お兄ちゃんだから」という言葉を聞く機会があります。私は以前そのように言われて嫌だったという人の言葉を聞いてからあえて使わないようにと注意していましたが、先日「お姉ちゃんとしてこの人格を愛することができますように」と祈っていました。年齢やその人格の立場というものを取り上げて子どもを扱っていても良いのでしょうか。

A:必ず人格の親しさ、近さには本音が現れる。そして本音とは私たちが無意識に脅しに使っているものである。「お姉ちゃんと呼ばれるのが嫌だ」という子の言葉をそのまま受け取れば、そういわない方がいいと思うかもしれないが、「あなたはお姉ちゃんになるのが嫌なのね、じゃあ今日から妹にするね」というと、プライドが傷つけられたと思い、お姉ちゃんが良いとなる。実際はその立場に応じて良いことも悪いこともそれぞれある。問題はその立場と子どもの認識をうまくコントロールする大人の言葉掛けにある。イソップ童話の北風と太陽にあるように、どうやって子どもの気持ちを切り替えていくかが大切である。自分流にやって後悔するときもある。そしてそこから改善していくこともある。今までの聖書を学ぶ会でも語ったが、聖言に倣って行い実験して、その結果を客観的に見てみるということが大切なのである。誰かに聞いてみることももちろん良い。ただ、簡単にはいかないし、同じ方法が通用するとは限らない。
話を飛躍させると信仰者は若い時、そのような生き方をしている世の人の効率の悪さが目に入る。だからこそ地の塩、世の光となって周りを引っ張りながら変えていこうとするが、うまくいかなかったり、相手を直そうとして相手が反旗を翻してきたりすることもある。その困難さに諦めてしまうこともある。しかし、この世に在って塩が塩気をなくすことほど悲しいことはない。私たちは神によって救い出されたものとして、イエス・キリストに倣い、この世に在ってその罪と対峙する光であり、きよめの塩でありたく願う。その熱き信仰の前に、神は必ず助け手と力とを与えてくださることを信じ、感謝しつつまた日々を過ごしていきたい。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)