同労者

キリスト教—信徒の志す—

Q&Aルーム

—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-128  —

山本 咲


サムエル記Ⅱ 22章

   これはダビデの詩でほぼ同じ内容のものが詩篇の18篇に記されている。詩篇はどのような出来事が起こったかという事実等が書かれた書簡ではなく、神を信じる聖徒たちの祈りの言葉、感謝、願い、その信仰とそれに対する神の応答による、神との心の営みを詩として記しまとめ上げたものである。もちろんここにはダビデの詩も多く記されており、いくつかの詩は実際にサムエル記に書かれた出来事と照らし合わせてみることでダビデの心情を読み取ることができるものもある。しかしこの二つの箇所のようにほぼ同じ内容が取り上げられたものはない。なぜ、この詩は詩篇とサムエル記の二つに掲載されたのだろうか。
この彼の神との関係や、祈りの言葉、感謝を込めた詩は詩篇で取り上げるに十分な内容である。ただそれだけではなく、これをサムエル記Ⅱの付録にわざわざ載せたのは、サムエル記のメッセージを明らかにするという意図があった。ダビデの歴史、その最初にはサウルとの問題が語られている。ただ、読んでみた印象はサウルと対峙したり戦ったり、責められたり逃げたりする中でも、ダビデが和解を求め歩み寄っている姿が示されている。しかし、結果としてこの関係が回復することはなかった。並行してダビデは王となるために様々な道を通らせられながら成長していく。そしてついに彼の子孫からメシアが誕生することが預言として語られたのである。そしてその出来事は現実となり、彼の子孫からイエス・キリストが誕生した。神の選びを受け、そこから神との関係をより深く築き上げながら、彼は神の摂理の道を歩み続けた。ここに救いに至る歴史があるのである。これをサムエル記は記そうとした。サウルが失敗者となった事実もあるが、ダビデは王として油注がれた者への敬意を忘れなかった。彼はどんな姿になろうとサウルを特別に扱ったのである。それゆえの逃亡者生活というものも彼は甘んじて受けたのである。
サウルは油注がれ選びを受けたが、神の民の王として立つ際にその信仰を守り通すことができなかった。彼は神の御心から離れ、民の人望を求めるようになったのである。それゆえ失脚することになった。そして後継者としてダビデが選ばれた故にサウルは嫉妬によって病的に狂ってしまったのだ。だからこそダビデが心からの訴えを行う時に冷静な心を取り戻すことがあっても、最終的には問題は解決せず、また少しするとダビデを憎むようになるのである。
実際にはそのような人間の姿がこの世界には多くある。そしてサウルがダビデに襲い掛かったように私たちにもそれは起こってくる。神の力は確かに強いものであるが、神はそれを通して人間をポンとどうにかしてしまうことや、いっぺんに世界を変えるということをされない。人間という存在を大切にされる故に必要以上に介入されることがないのである。その代わりに、人間の世界を変えるために人間を遣わすのだ。そしてそれは神の御心を探ろうとする者に対し、歴史や信仰者の姿を通し表される。
ここに記されているダビデの姿にもそれが表されている。ダビデはサウルとの関係の中で確かに思い悩み、苦難の道を歩まなければならなかった。しかし、その中で確かに神の御心に歩み、その御声に聴き従って進み続けた。そして、その道を見るならば、確かに神の守りの御手が彼を覆い、苦しくとも途絶えることや、彼の命が取られるというところから救われてきた。ダビデはそれが神の一方的な憐れみであり、祝福であることに心を止め、感謝を忘れずに歩み続けたのだ。彼は彼自身の歩みの中にある功績を喜んでいることがこの詩でもしるされている。しかし、それは一般的に「私はこんなことができた」「私は優れている」というようなことではなく、神の顧みであることを知っていた。「強さを誇れる」「正しきを自らのものとして告白できる」「私は特出している」それらすべて「神がそのように私を選びそのような者にしてくだるから」ということが背後にあるのだ。ダビデは神の国の王として立つということの中でそのような営みを神との間にすることができたのである。
 私たちは王ではないが、神と共に生き抜くということを通して神がどのように私たちに働きかけてくださっているか、助けてくださっているのかということを感じてもらいたい。そしてそれは決して私たちの行いに伴うものではない、神の一方的な憐れみであることを含め、私たちがどのように生きるべきかということを考えていく必要がある。その先に神の義しきが全うされるように、そしてそのようにしてくださる神を信じ続けて歩みたく願う。


Q:11月の末の礼拝の中でマリヤとマルタのお話がなされていましたが、マリヤの行いがマルタの癇に障り、それゆえにイエス・キリストに対し、その矛先を向けてしまいました。私も仕事の中で同じように癪(しゃく)に触られる瞬間があり、イライラしてしまう時があります。どのようにすればよいでしょうか。

A:あなたが癇に障られたくないならば、そのような癇に障る相手との物理的距離を取ればよい。その場から自分を外していくか、相手を違う場所に配置するようにすればいい。癇に障るということ自体は悪いことではない。感じない人に感じるように教えることは困難であり、本人は困らなくとも周りが困るということにつながる。周りが見えるからこそ、多くのことを感じ、それが癇に障るということも起こっていくのである。ただ、その癇に障るということ自体はあなたの個性であり、傾向性である。「これが好きで、あれが嫌い」や「食べ物を食べすぎちゃう」、「こだわりが強い」、などのあなた自身を形成する一部である。だからこそ、それをどのようにしていきたいのかというあなたの意志が大切になる。癪に障られやすいからそうなっても顔に出さないようにしたいのか、そもそも癪に障りやすい感覚を手放したいのか、自分によく問いかけていく必要がある。また癪に障るというのは一面相手をあなたの大切な範囲に置こうとするから出てくる感情である。こうなってほしい、愛したいけどあの人のこの部分にイライラするということや、愛そうとしているのにこんな態度をとってくる、教えているのにうまくいかないなどの関係を持とうとする故に起こってくるのである。だからこそ、どうしてもそのようなものを持ち続けることが難しいならば、相手を切り捨てるしかない。あなたの大切にしたい範囲から外せばいいのである。そうすれば、相手の言葉も何も気にならなくなってくる。どのようにしたいのか、自らに問いかけていくべきである。
癇に障るということは心の問題で、これが正解とか、こうすればよくなるという確実なものはない。すべてはその人個人の感覚で、それぞれに差があるものだからである。だからこそ、あなたは自分の立場と相手とのかかわり方を決め、相手を愛していこうと思うなら、そのように相手から何かを受けても甘んじて受容しなければならないし、逆にそれに耐えられないなら残念だが、相手とのかかわり方に見切りをつけなければならないのだ。ただ、それを決めるのは貴方である。そして、そうあなたが決めたのなら、それがのちになって尾を引くような問題にならないように注意する必要があるのである。


Q:なぜサムエル記の最後に詩篇にも記されているこの詩が載っているのか、聞き逃してしまったので、その理由をもう一度教えていただきたいのですが。

A:これは確かに彼がサウルから逃げていた時に書かれた詩ではあるが「サウルを何とかしてください」「サウルから救われました」というだけの詩ではない。ここに書かれている詩には読む人に多くの力を与える。讃美歌も同じである。その詩が読者に力を与え、讃美する人たちを力付け、訴えかけるものがあるのだ。サムエル記がこれまで書いてきたようなその時代の歴史という事実の列挙ではなく、この詩を入れることで彼の心情と神との関係性を描き出したのである。
私は一時期多くの人とオリジナル讃美歌を作る際に作詞に共に携わった。その人たちが持ってくる詩そのものの言葉に関する作り直しはしたが、彼らがその詩を通して表そうとしている信仰の告白は真直ぐ受け取って採用した。詩とはそのようなものなのだ。
先日NHKで財津和夫の話が取り上げられていた。彼はコロナ禍で引退をするべきかと悩んでいた。しかし、そんな折に、「詩の教室を開いてください」と言われたそうだ。そして彼は多くの人の詩を読み、それを評価し、書き方を教えた。その中で彼の心は変えられていったのだ。寄せられる詩のほとんどが、自分で自分を励ます詩で、それを読む中で彼はもう一度自分自身を励ます詩を作ろうと思ったそうだ。それによって彼は一度引退を考えた心を鼓舞して立ち上がっていったのである。
私たちに初めに与えられた詩というものは神を讃美するためのものだった。それが、だんだんと神にささげるものとなるだけでなく、自らを力付け、他者を力付けるものとなっていったのである。それほどまでに詩、言葉というものには大きな力があるのだ。
あなたは先日年末感謝献金の趣意書に咲先生と取り組んだ。ただ型にはめたもので終わってもよかったのに、あなたはそこに自らの霊感に示されて、証しを含めて書き表した。それが伝わるか、伝わらないかということはもちろんあるが、そこに込められたものを受け取って励まされた人もいただろう。
ここでサムエル記の記者はその詩を加えてサムエル記にメッセージ性を込め、表そうとしたのだ。彼らが表した事実は、神が語られたことや、神の義の基準ということを私たちの前に示したのである。それは神の抱かれる「喜び」「悲しみ」「怒り」などの思いを私たちに表したのだ。


Q:先日の礼拝のメッセージの中で、ルカの福音書2章11節が取り上げられましたが、この箇所の「あなたがたのために」という部分に大きなメッセージが込められているということをメモしていたのですが、その意味をもう一度前後関係を含めて教えていただきたいのですが。

A:礼拝では羊飼いを証言者として遣わすために彼らに対してこの言葉が送られたのではないということを私は語った。もちろんその後、彼らは実際証言者となるが、「神の御子が生まれたことを証言するものになる」ということに喜びを見出したのではなく、彼ら自身が救われたこと、自分を救うために救い主が生まれたということが彼らにとって何よりの喜びだったのだ。私はこのことを語りながら、私たち自身の信仰生活においてはどうだろうかと問いかけた。私たち自身がこの救いの喜びを第三者として受けているか、それとも救われたことにまず感謝し、心から喜んでいるのか。これは大きな違いである。私たちの福音は私たちが救われて、そのことを喜んで以前の自分から変えられたのだということを生きているからこそ証となり伝えられるものである。しかし、私たちは自分たちが救われた喜びを忘れ、ただ聖書の知識、その理屈を語ってただ終わってしまっている場合がある。そのことに気を付けていかなければならない。
また福音書で語られる多くの奇跡によって病などを癒された者たちはその時は病をいやされたという事実を喜んでいる。しかし、そこから彼らは十字架によるイエス・キリストの死から、復活を経験し、キリストの救いとは体を蝕む病からの解放だけではなく、心を蝕む罪という病からの解放であることを悟ったのである。だからこそ、彼らは心からそのことを喜ぶということに至るのだ。
今年一年の説教の主題である「僕として生きる」ということを語る際、私はマタイのタラントのところから僕ということを述べたが、主題聖句としてコリント人への手紙Ⅱ6章4節の「あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです」というところを取り上げた。この聖言を取り上げることで私は「自らを僕として推薦しているという私たちの自発的な姿」を強調したかったのである。私たちがそのように生きることで、真の意味でキリストの僕として立っていくことができる。強制ではなく、自主であることに意味があるのだ。
「持っているものはさらに与えられ豊かになる。しかし、持たない者は持っているものまで取り上げられる」と聖所には記されているが、そのためにはこの自主性が必須になる。タラントを預けられた三人の者たちの内二人はそれぞれ自主性をもって主人のためにタラントを用いて倍儲けることができた。しかし残りの一人は目の前に働きがあるにもかかわらず、いろいろな理由をつけて、その預けられたものをそのままにした。もちろん主人はこのタラントを運用して儲けなさいとは言っていない。しかし、儲けた二人は主人のことを思い、こうしたほうが良いと判断して動いたのである。対して、残りの一人は主人のことを思っていない。彼の中に進んで主人のために働くという自主性は存在しなかったのだ。三人の僕の最後はどうだったか。主人を思って自発的に働いた二人はさらに用いられるようになった。しかし、怠惰な僕は役に立たないといわれ外の暗闇に追い出されたのである。このことは恐れなければならない事実なのである。
老牧師は祈祷会の際に祈りや証の指名ということを行っていた時があった。それは老牧師の愛である。自主性ということに至るまで、一面すべきことを強要し課した。しかしそれを私は行わなかった。やるべきだと思う人が行うこと、自分から進んで行うことがやはり必要だと感じたからである。それは先ほどのタラントのたとえと同じである。やるべきだと感じた人が行い、恵みを受ける。もちろん聞いてくる人には「こうしたほうがいいのでは」と助言することもある。しかし、私はあくまで強要しない。それを優しいと感じる人もいるだろう。しかし、一面やらない人に強要しないということは、その人が怠惰になるということも十分あり得ることなのだ。先ほどの聖言の通り「持っているものはさらに与えられ豊かになる。しかし、持たない者は持っているものまで取り上げられる」。このことをやはり心に留めるべきである。
先日新会堂への引っ越しが土曜日の午前中に行われた。しかし、実際その時間は本教会の掃除の時間に充てられている。
玉城義兄が会堂掃除を自主的に行っていることはたびたび語っているが、彼もその引っ越しの手伝いに呼ばれ、断ることなくその時間引越しの手伝いを行った。しかし、誰も掃除について触れる人はいなかった。義兄は誰にいうこともなく、掃除の時間をずらして、ただ一人で黙々と行ったのだ。私は別にここでそれを誰かが手伝うべきだったということを言いたいのではない。やるべきだと思った人がやるという方針で良いと思う。その分すべてのことを見ておられる神が彼を祝福されるだろう。
彼がこれほどまでに熱心に奉仕を全うしようとするのは、彼の子どもたちのためである。彼は自らの弱さをよく知っている。足らなさも自覚し、それ故に愛する子どもたちが自らの不備で神の道から外れてしまうことを恐れている。だからこそ、彼は神の前に真実に心から仕える僕であろうとしているのだ。子どもの救いは子どものものであるという人もいるだろう。その通りである。しかし、そこに神の憐れみが働かれることも十分にある。神は憐れみ深く、遜って願う者の祈りを聞かれる方だからである。しかし、私たちに信仰の姿もなく、ただその時になったから神頼みのように願うばかりでよいわけがない。怠惰は大切なものを失うばかりである。だからこそ、彼は与えられた二人の子どもの存在だけで満足せずに、神の道を選び取った二人の子どもを得ようと働きかけている。なお、神の前に自らを僕として推薦できるよう働きに勤めていきたく願う。


Q:ヨナ書を読んで、ヨナという人物が、昔は怠惰ゆえにニネベに行かないという選択をしたのだと思っていましたが、読み深めていくうちにヨナは働きにしっかりと勤めていた預言者だと知りました。彼は神の御心を知っていたのにもかかわらず、それでもニネベというイスラエルの敵を救いたくないゆえにそのような行動に出たのだと知りました。彼はなぜその部分で神の御心と一致できなかったのでしょうか。

A:預言者像は多くあると思う。理想もある。きっと神の御心と一致していることが預言者の必須の姿であると望むだろう。しかし、実際はそんなに理想通りの存在でもない。私たちは神がその人に対して行った働きかけによってその人に対するイメージを変えてしまうことが多い。
例えば、神に愛された人と礼拝でも語ったザアカイである。きっと「神に愛された人」なんて言うとザアカイを良いイメージでとらえたいと願うだろう。しかし、本来のザアカイはあなたのイメージする最も嫌いな人である。「この人、どうしたって好きになれない」という人物がザアカイだろう。人気投票をすればまず上位には入らない人がザアカイである。しかし、神はそのような人に愛を注がれるのだ。ザアカイを神は愛された。だからこそ、特別に声が掛けられたのだろう。ただ、それにこたえるだけのザアカイの信仰があったことも事実である。
私たちは神像というものに、偏りのない不偏の愛を望むだろう。確かに神はイエス・キリストを与え、すべての人に救いをもたらそうと望まれた。それは事実である。しかし、一方で聖書を読むと神という方は意外と区別しているように感じられる。そこに神の人格と神の御意思があるのである。そういうと、私は愛されていないのだという人もいるが、そういうことではない。大抵そういうことを言う人は自分のやりたいことがならない故だろう。思い通りにならないから、神は愛してくれていないと思うのだ。しかしそれは違う。愛というものの受け取り方を間違っているだけである。そしてもちろん神はイエス・キリストを通して救いの御手をすべての人に差し出された。その事実は変わらない。それでもやはり聖書を読めばその愛の向けられ方に違いがあることに気付くだろう。そしてやはりなぜだろうかと思うのだ。しかし、感情とはそういうものである。そう簡単に読み取ることができるものでもなければ、完全なる規則性をもって働いているものでもないのである。
 ヨナに対する神のお扱いを見るときにも私たちはその神を知ることができる。神は「あなたの中から差別は消えないね。残念だね。でもあなたは頑張ったね」というぐらいで終わらせずに、トウゴマを用いて「あなたはたった一本のトウゴマを惜しむだろう。私もニネベを惜しむのだよ」と語りかけたのである。
 神は人格的な面を持っておられることをあなたはどう思うだろうか。私は面白いと思う。そして、神は私の語り掛けにどのように返してくださるのか、こうしたらどのように反応してくださるのかと考える。そのようなやり取りを楽しんでいるのだ。神の人格的側面が良く表れているのが、イエス・キリストの姿である。もちろんイエス・キリストに直接お会いすることは許されていない。しかし、福音書を読むときにその人格に触れることができる。そのようなことを通して、私たちは神を知るのである。
 だからヨナを含め私たちはある一定の役職を持つ人にイメージをつけやすいが、そうイメージ通りではない。預言者だって様々である。私も牧師をしているが、自分が完璧だと思ったことは一度もない。私たちは誰しもが、偏りや弱さを抱えている。それは預言者と呼ばれる人たちも同じなのだ。ただ、そこで神に寄り縋って悔い改め是正し続けて生きるか、それとも、神とどこまでいっても一致できずただ自己中心を貫き通すか。そこに違いが表れる。なお私たちも神の愛に縋り、共に歩み続けたく願う。 

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)