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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-129  —

山本 咲


サムエル記Ⅱ 23章

  この章の最初のところはダビデの辞世の言葉である。彼がイスラエルに対し麗しい歌を賛美したのである。ダビデという人物はサムエル記の中心人物として、その人生のほとんどがイスラエルのなかにおかれ続けられてきた。人の業であるが、すべて神の御旨である。神の御旨であっても、人の手が多くのところに用いられているのだ。神がご計画し、すべてのことを動かされている中で私たちが神の御旨を自分のものとし、どのように表していくか、そしてそのために自らをその器として捧げる必要があるということが問われ続けている。サムエル記はそのようなことをこの時代を通し、またダビデという人物を通して、神の御旨を探ろうとするものに語り継げている。サムエル記は預言書であり、預言者と呼ばれる人たちがその任を全うした。神の御業を直接見ることはできない。しかし、私たちが行われていることを見る中で、「これは神がなさったのだ」と信じるのである。だからこそ私たちはそのような神の働きに自らが携わることができたと感謝するのである。しかし神がすべてのことを行っているとはいえ、すべてのことが思い通りで、人々が一般的に思い描くような幸せな世界であるとは限らない。いかにも受け入れられやすく、神がなさったのだと思われるようなことがあるならば、私たちはそのように生きる。しかし、実際は神はいるのかと思われるような悲惨なことや恐ろしいことも起こる世界なのである。さらに私たちは罪という神から私たち自身を遠ざける要素を抱えている。それによって私たちは日々の中に神の意志を共通して認識することができない。そればかりでなく、むしろ、その意志に対峙し、対抗し、その神の御業を喜べないほどにまでになっているのである。だからこそ自らを神の生活の中に入れ、その知識の中に生き、自分の生涯をそこに置いていくときに本当の意味で私たちは神を見出すことができるのである。
 私たちの人生の中にはそのような時が多くある。若い時も、発展途上の時も、自らの人生の頂点とよばれるようなところを通ったときも、老いた晩年にも、私たちはその中で神を考え、捉え、見つけ出すのである。
 ダビデが辞世の句を残したとき、ダビデを通して神が表されたのである。そしてそれがこのところにこのような形として残ることをダビデと共に生きたサムエル記の著者たちは良しとし、このところに記したのだ。二節のところに「主の霊は、私を通して語り、そのことばは、私の舌の上にある。」とあるが、ダビデは自分の生涯を神と共に生き、彼が語る言葉や霊的な鋭い感性が神の御意思と重なるほどにまでなったのだ。これが一面私たち信仰者が神の御業を成すものとして至る形なのである。しかしこれも信じる者にとっては感謝なことであり、それを目指すものであるが、そうでない者にとっては、結局ただの一人の人間の言っていることにしかならない。それは人間の傲慢で、神の名をかたり、人をのせて信じ込ませている独裁者になるのではというような浅はかな考え方でしかこのことを理解できないのである。歴史にはもちろん、そのような独裁的な働きによって滅びを招いたことも伝えられているが、同時に私たちは神を信じるものとして、当然時代や人を見分けなければならない。加えて決して民主主義が必ずしも良いわけではなく、独裁者がすべて悪いわけではないことも捉えていかなければならない。そしてそのようなことを私たちが理解してくる中で、ただ知識として捉えて終わることや、誰かの思いを代弁して意味も分からず語るのではなく、その中に生き、考え方を確立することが必要なのである。そのためにも信仰者にとって神が人を通してご自身の御旨を語るという事実をどのようにして捕え、生きるのか、よく考えていくことが必要なのである。
 先月も語ったが、詩篇にはダビデの詩が多く取り上げられている。ただ、あえてこの詩は、わざわざこのサムエル記にまとめられている。これよってダビデの生涯がどのようなものであったのか、そこに神との契約があった事実が述べられている。それは実際、イエス・キリストにつながり、本当の意味で王家となっていくのだ。ダビデはそのことを思い描きながら、信じて、そこに臨んでいった。それがイスラエルの選ばれた意味なのである。
 23章8節からはダビデの勇士の名前が挙げられている。別の内容が取り上げてられているように感じられるがこれもまたつながりがある。この勇士たちはダビデ王家を支え、そのなかに武功を上げていった者たちである。単純に彼らの功績をひけらかしているのではなく、彼らのような神の御旨を信じ歩むものが成したこと、働きが、証しされているのである。神は人を通しその御意思を表された。ダビデの時代は多く戦いがなされたが、それらは全て神の戦いであったのだ。そこで特にここに上げられたような勇士たちは、神の国を支えるために、そこに神の御意思を表すために戦い、命をかけたからこそ、この様にして名が挙げられているのである。
 そう考えるならばこのベツレヘムの水をダビデが求めたという記事の中に何が見られるだろうか。それはダビデと勇士の麗しい関係性である。しかしこれはただの人間的な関係性を表そうとしたのではない。神を畏れ、神の国のためにとその御旨を探り求めるなかでなされる勇士とダビデとの間になされる信仰的な関係性なのである。これをサムエル記の預言者たちは評価し、ここに記事として書き留めたのだ。
 では私たちは何をもってその関係性を評価するだろうか。受ける方も、与える方もどのようにして神の御意思をそこに含ませていくのだろうか。
 ダビデは単純にベツレヘムの水を求めた。それを三勇士はダビデを通して表された神の御意思と捉え、その水を命懸けで取りに行ったのだ。そしてそれを受け取ったダビデは喜んで飲むのではなく、これは自分を通して表された神の御意思であり、それをこの三人は全うしたのだと捉え、神へのささげものとしてその水を地に流すことによって証ししたのである。
 私たちはこの時代にあってこのように互いにできるかどうかが問われ続けている。神の御意思は今も変わらず人を通して表される。しかし、それを人から出たものとして蔑ろに扱っていると、どこかに神の御意思が隠れているのを見逃す可能性があるのだ。自分に都合がいい時には、これは神の御意思だと言っていながら、都合が悪くなるとその手を返すような結局、信仰や、神の御意思、御旨という言葉が、ただのツールまたはルールでしかなくなっており、ただそのような形ばかりのものが営みの中に取り入れられているだけというような状況になっていてはいけないのだ。今の時代も本当の意味で神が生きて働いておられることを恐れていかなければならない。教会に訪れていた人たちがいつの間にか離れていくことが起こってきている。しかし、それは結局神の御旨を理解できず、捉えられないまま、形ばかりの信仰で生きているときに起こってきやすい。すべて自分の思い通りになるような、自分にいいことが起こるようなご利益宗教的なものになっているときに困難が訪れるとそのようなものに陥ってしまうことがあるのである。 
 勇士たちとそのトップに立って率いていた三勇士は武功という形ではあったが、神の御意思をなし、ダビデと王国を支えた大切な存在だったのである。神の御業は人の営みの中に表される。今は多様的な時代であるから戦いということはないが、私たちは違った形で神の意志を表しながら、お互いがそのようなことを大切にして、信仰者として生き、更には継承していこうと願っているのである。だからこそ、私たちの生活は信仰から切り離せるものではない。日々の生き方が霊的営みとして、互いに尊敬し、仕えあいながら、神の御旨を成し、生き続けていくことが必要なのである。そのようなことを理解し、生きることができるお互いであらせていただきたく願う。


Q:「神の御意思は人を通して現れる」と語られていましたが、自分の意志を神の御意思や神の時と錯覚してとらえないようすること、また正しく神の意志や時を捉えられるようにするにはどうしたらよいのでしょうか。

A:なぜ神の時を捉えたいのかということをまず考える必要がある。その動機が自分の為、自分の利益や賞賛の為なのかを見極める中で、本当に神が喜ばれるため、証しされるため、神の御業のために知りたいと願うならば、それは神がそのことをきちんと示してくださる。  ただ時を知ったからと言って、自分にとって良いか悪いかはわからない。知りすぎると知っただけの要素に自分を添わせていかなければならない。だからこそ動機を吟味して、自分の信仰的姿勢や対応を決めていかなければならないのである。人間は分かったからと言ってそう簡単にできるものではない。
 真理と事実はちがう。見えたものと、そこから自分がどのように察するべきかということがある。ヨセフがパロの夢の解き明かしを行い7年間の豊作と7年の飢饉を知ってそれを神が示されたことと信じて備えて事に当たったように、私たちが示されたこと、知ったことに対し、どう行動していくかということが問題なのである。知ったならば、それを生きなければならないのだ。究極的には全ての時は神しか知りえない。だからこそ、良いことも悪いことも神がいつか来ると示されたのなら、それがいつか来るということを信じて、自分がどのようにするかということを考えていくほうが大切なのである。日付が分かってもなににもならない。それに対応できるかどうかが問題なのだ。その時を教えてくだされば対応できたのにという文句は備えを怠ったものの言い訳であり、それでは備えたことにならないのだ。すべてのことを考え備えていくことが私たちの信仰であり、そのことのために準備していくことが必要なのだ。だからこそ、時を知るということは、ただその時を知って、今その時ですと語る愚かな人間にしかならない。ヨセフの初めは牢屋から出られるかもしれないとパロの夢の解き明かしを行った。しかし実際彼は牢屋からは出られたものの、その飢饉へ対処する責任者として任命されていく。彼は牢屋から出られたら家に帰れると思っていたかもしれないが、彼は家に帰れず、時を知ってしまったからこそ、それに備えることを求められたのだ。もちろん彼には権威も与えられたが、その分の仕事も彼に与えられ、自分の思い通りに生きることはかなわなかったのである。
   私たちは時に間に合うものになる必要がある。年に追い付かれてしまったら、その先には何もできない。試験の日付が決まっているのにその場所に行かないというようなものでその先は不合格しかない。いつかそれが試される日が来るのだと私たちが考えて備えて生きるかどうかが重要なのだ。求められる時は自然と年を重ねるごとに見えてくる。ただ、それでもその時に何も準備していないと、何もできないまま終わってしまう。試験の日を知って、場所に行けても、勉強をしていなければ合格しない。そういうものなのだ。だからこそ私たちは欠落しているところを注意して見極めていく必要があるのだ。もちろん探せば言い訳はいくらでもできるが、時を捉え損ねるということで問題が起きるのは貴方に対してだけなのである。そうなればいよいよ自分が備えていなかったことを後悔するしかなくなってしまうのである。


Q:伝道者の書4章9-12節の中で、12節の途中までは二人の人の話なのに、なぜ最終的に三つ撚りの糸と2から3へと増えているのでしょうか。

A:人数が多いほうが力の大きいのは当然である。まずは一人で何かをやるよりも、人との関わりをもっていくことが必要なのだ。それによって生み出される力は1+1=2ではない。単純に一人と一人の力よりももっと多くのことが生み出されていく可能性が大きいのである。もちろんそこにも創意工夫や信頼関係など様々な要素は必要になる。3人ならなおのこと、3人が同じ意志を持ち、目標に向かっていくとき、難しい面はあるがそこに力が集中されるなら、単純な3倍ではない力が表れてくる。そして4人集まるならば、イエス・キリストがあなたの罪は赦された(マルコ2章1-12節)と言ってくださるだけの大いなる御業を成すことができるのである。集まりすぎもよくないが、1人よりも2人、2人よりも3人…となっていくのだ。そのようにして人が多く集まると利潤が大きいということはよく経験しておくとよい。子どもにとってもそれは重要なことなのである。だからこそ私は「兄弟は2人よりも3人いた方がいいと」よく言うが、それが保たれることはなかなかに難しい。話を戻していくが、単純にそのように考えていくということでいいと思う。ただ、重要なのはその人たちが同じ意志を持っていることであり、私たちを結び付けるのは、神を信じる信仰である。それが私たちを力付け、結び付け、大きな力となるのである。
 また話は変わるが、子育てのなかで、聖書の中にあることを実践していくことに取り組んでみると良い。その中で、子どもたちの姿からその気質を捉えることができる。いわゆる実験のように、子どもを対象として言葉掛けして、子どもがどのように反応し動くのかということを確かめていく。その結果を子どもがある年齢になったときに伝えることで、子どもたちはその実験結果を聞きながら、自分も子どもに対して実験をしながら、また自分の子どもに教えることができるのである。そのようにして改善していくのは自分や家庭、子どもに何らかの弱さがあり、そこに必要なテコ入れしたいからである。人生は一つのことが改善されるだけで大きく変わる。しかし、私たちは自分の弱さや、足らなさのゆえにテコ入れすることを恐れる。なぜなら自分の弱さを直視していく必要があるからである。しかし、それができるのはなぜか。私たちがその者を愛するからである。必要なこと、それが欠けているゆえに問題が起こるならば、それに早めに着手する必要があるのだ。もちろんやりすぎはいけない。世の中にもいるような評価される子にする必要はない。必要なのは神の前に愛され、喜ばれる子どもに育てることである。なおあなたも取り組み続けてほしい。


Q:神様の御心を求めて祈るとき、神様の御心が解らないことや、自分がどのようにしたらよいのかと思う時があります。お委ねしますと祈るのですが、それでよろしいのでしょうか。

A:あなたの人生のこれまでを振り返る中で、大切な事例をきちんと捉えていく必要がある。委ねますと言ったときにどのように物事が進んだのか、逆に私はこれが神の御心だと思いますと歩んだときにどうなったのか振り返るのだ。そのなかで実際どう進んだのか、委ねますと言っても自分の思うようにしていなかったか。何がどのように進められていくかはわからないし、それが正解かどうかもわからない。自分が納得したら正解なのか、神が正解を出したときにそれを正解として自分では納得いかなくても神が決められたのだと受け入れていくのか。どちらにしても自分の心が落ち着いているかどうかが重要なのである。自分の落ち着きをどのようにして判断するのかは周りの人がどのように巻き込まれているかをみていれば分かる。自分の中では平安ですと思っていても、周りの人が当てつけられているような状況や、とばっちりを受けていると感じているうちは貴方も思い込んでいるだけで、結局本当の穏やかさの中にいないのである。とすると、隣人が豊かに健やかに心安らかに生きているというような姿が見られれば、私も穏やかなのだと判断できるのである。そのようにして相手の反応によって見分けていく必要があるのだ。いいのか悪いのかではなく、あなたはいよいよ人との関わりの中でそれを指標とし、そのようなことを見極めていく必要がある。もちろん相手を喜ばせようとして、相手の思う通りを行う必要はない。本来のお互いの関係が現れていることが大切である。向こう側の問題もあるが、相手が求めているのに自分がそれに応えられないというのは自分の中で何かが欠落していると思った方がいい。なぜなら相手の求めに自分が対応をしなければ、相手の悲しみや怒り、願いに寄り添うことができないのだ。しかし、あなたが神によって豊かに励まされ、満たされているなら、相手の願いに寄り添うことができるのである。それは相手の為でもあるが、結局は自分の為にもなり、それが、自分が神によって満たされていることの指標になるのである。そしてあなたがそれを相手にできるようになった時それは大きな福音になるのだ。


Q:サムエル記Ⅱ23章14節から17節の一連のことが行われ、三勇士はダビデに水を持ってきましたが、ダビデはそれを飲みませんでした。なぜですか。

A:三勇士が持ってきた水を飲むという行為は、自らの嗜好を満たすためにすることである。ダビデにとってその水は必要だから飲むものではなかった。水は手元にあったのだ。しかし、あの水が飲みたいとダビデは求めた。これはあくまで必需品ではなく、ダビデにとっての期待というか、好みを満たすためのものでしかなかった。そして、ダビデが水を実際に飲んでしまえば、それは彼の欲を満たすもので終わってしまう。しかし、その背後にあるのは三勇士の信仰である。彼らはダビデの嗜好品を取りに行くために戦ったのではなく、ダビデの言葉一つにも神の御意思が宿るという彼らの信仰によって戦いに出ていったのだ。もちろんダビデは自分の言葉に神の御意思があって伝えたというわけではなかった。ただ単に思ったことがそのまま口から出たことでしかなかった。それでも彼は、それをとってきた三勇士を前にして、その水をそのまま受けるということを良しとしなかった。なぜならそれはとても高価で尊いものだったからである。その水のために彼らは命をかけた。いうならただの故郷の水である。しかし、信仰のゆえに彼らはそれを命懸けで取ってきた。その言葉の中に神の御意思が働かれていると信じたのである。ダビデは意図しなかったが、神がそれをご計画なさったのだと三勇士が目の前に水を持ってきて初めて気づいたのである。だからこそ、その彼らの命をかけた高尚な水を神へのささげものとして、地に注いだのである。それこそ、神が受け取るべきささげものだと気づき、ダビデも信仰によってそれをささげ返したのである。この話を載せたサムエル記の記者たちはその信仰こそ尊いものであり、これこそが、神の前に本気になって生きることだと示しているのである。  第二教会として与えられた仙台聖泉一本杉キリスト教会は宗教法人で銀行からお金を借りることができなかったゆえに山田保兄が個人でお金を借りて、教会守(も)りをしながら、その返済を教会と共に行うということを信仰によって決めた故にこのところに教会として立った。それを私たちは彼の高い志として感謝した。しかし現実としてこのことはそんな単純なものではない。彼には毎日の生活の中からこのために捻出していかなければならないものがでてきている。私たちの教会は彼のそのような信仰を受理することができるくらいに成り立っている。本来このようなことは難しい。登記上は彼の家であり、彼の所有物となっている。教会は名前として掲げられており、かつそこには教会の献金がささげられてその返済に充てられており、これから35年間続けられていく。しかし、あくまで書面上は彼の家なのだ。これはお互いにとって大きな恐れと信仰と共に行われていることだからできるのである。もし彼が信仰から離れ、これは僕の家ですと言ったらどうするのかと世の中の人は言うだろう。そうでなくても、すべての人がこのことを信じられるとは考えられない。ただ、それを私たちは神の事業として行うのだ。まだこのことは始められたばかりで、35年後どうなるかはわからない。しかし、時がたち、次の時代を担う人たちはその教会を見て、私たちの信仰と、それをどのように所有し、扱っていったのかということを見るのである。この仙台聖泉一本杉教会は誰が所有するかというものではなく、神のものであることを彼らは見るだろう。世の中においては理解されない。ただ私たちの指標は世の人のそれでもその価値基準でもない。神であり、神の基準である。この教会を後に見る信仰者はそれによって神を信じ歩むという本当の意味での信仰に生きた者たちの姿を見出すのである。この教会もまたあなたがそうであったように多くの人が救われて、その中で神を見出し、子どもたちを神の御手の中で育て、家庭を築き上げていくためのものなのである。始めは何が行われているかわからず、それでも救われたと信じて歩み初め、だんだんと信仰に生きられるようになり、それが分かるようになってくるのだ。そして信仰がだんだんと形成される中で、家庭が信仰を実行する場として用いられていくことでクリスチャンホームを豊かに築き上げていくのである。


Q:歴代誌Ⅱ1章
 さっと通り過ぎてしまいそうなところだったのですが、このヨシャパテという人の時代は国が栄えました。しかし、最悪の形の縁を結んでしまいました。
 人生の中に裏切りということが多くあり、手のひらを返されるということがあります。裏切りと信頼が紙一重であり、心に残ってしまう気がします。しかし、クリスチャン同士の中にもそのようなことがあります。それはなぜ起こるのでしょうか。

A:その感覚は長い人生の経験の中で作られているものである。究極相手の本心は確かめられないということは多くある。それでもこれは調子合せだなと思うことや、相手をのせるために言葉をつくろっているのだなと思うこともある。私はそのような相手との関係や距離感というものは自然と分かってくるものであると思う。人と関わっていれば、そのような感覚は確かに養われていく。それが正解かはもちろんわからないが深入りしない様にしようという思いで相手との関係を作っていくとその感覚は養われない。傷を負わないようにしていれば傷も負わないが、相手の思いを読み取ったりするスキルも得られないし、その経験も積めないのである。ただあなたは鈍感でいたくないと考えている。それは幸いである。しかし、そう在りたいと願うなら、傷も負う必要がある。実際私はあなたにはそのような要素が備わっていると感じている。だからこそ私は貴方をそのような場に起用するし、大変さはあるが、あなたにその信頼を預けているのである。これからもそのような場は与えられるだろう。しかし、保身に走らないように、神に委ね自分を明け渡していかなければならないのである。イエス・キリストはそのことを耐え忍ばれた方である。裏切られても、なお相手のために祈り、行動し、尽くし続けた。それゆえに救われた霊もあれば、それでも振り払われた手もある。時には信仰者であっても神とキリストの手を振り払ってしまうような行動に出てしまうこともある。しかし神とキリストはその様な霊のために働かれている。そのあふれるばかりの愛と慈しみに私たちは感謝するとともに、信仰によって同じ道を歩みたく願う。そこで負った傷は神とキリストの負われたものであることをなお覚えながら、逃げることなく、主への信仰と共に立ち続けていきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)