同労者

キリスト教—信徒の志す—

Q&Aルーム

—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-134  —

山本 咲


列王記Ⅰ 4章

  ソロモンの治世に入り、ダビデの死を含めた様々なところを越え、王政がソロモンに完全に移されていった。簡単にこのところまで至ったわけではなく、処理しなければならなかった物事も多くあった。だからこそ、ソロモンはすでに王位を継承して、その王政がなされていたのにもかかわらず、4章の初めに「こうしてソロモン王は全イスラエルの王になった」と書かれているのである。それはこのところでついに王国の体制が整い、完成したことでその頂点を極めたということを示しているのだ。そしてここに改めて「その王政がどうであったのか」ということが預言者たちの視点で書かれている。強調されているのは、ダビデ王国の継承であった。ソロモンは革命や、変革によって王家を変えて王になったのではなく、ダビデの息子としてそれを継承した。ただ、彼はただ息子だからという理由で継承されたのではない。大切なことは「神が彼を選んだ」ということ、またダビデの信仰とダビデが王国を形成するうえで大切にしていたこと、すなわち「神の民である王国を確立するという信仰がここに豊かに継承されている」ということであった。
またこのところにダビデの時代に用いられた者たち名前や、ソロモンの時代に行われた働きが記されている。このことから、ソロモンの時代にも彼らが起用され受け継がれていることが分かる。正規軍や官僚がいなかったサウル王の時代から、ダビデの時代は多くの戦いであげた武功によって貴族、王族、官僚となった者たちが現れた。とはいえ、あくまでこの時期は戦いの時代であり、ダビデと共に戦った者たちが武功や功績によって権力を担うことで国を支えていた。そしてそこから、ソロモンの時代になり、戦いがほぼ無くなり始め、官僚制が整えられることで、その能力によって人々が登用されるようになった。ダビデの時代から、平和なソロモンの時代はそのような者たちも、武功だけではなく、能力、賜物によって用いられることとなったのだ。これによって王国が整えられていったのである。このところに様々なソロモンの政治的な営みが記されているが、これらを記したのはサムエルの時代からその預言者としての働きを継承した者たちである。彼らは神が背後におられ、ソロモン王を中心として神がどのように国を建てあげておられるかという視点を大切にしている。そんな彼らが、サウルからソロモンの時代に至るまで、またその先をこのところに記しているのである。神の王国の民が王を先頭にして神とともに歩むとき国は繁栄する。しかし、これが正しく行われず、崩れてくると国もまた崩れていくのである。「全イスラエルの王」という記し方からも、筆者たちがこの後イスラエルの分裂が起こり、ユダとイスラエルというように分断されていく時代を知っていることが分かる。だからこそ、列王記の後半、王国が崩れ始めるに至ったソロモンの王政についても、彼らは何が崩壊をもたらしたのか、彼らのどのような行いが、神の御心から逸れるということに至ったのかを記しているのである。
ソロモンの生涯はそのような視点をもって記されていった。彼の知恵は神によって豊かであったが、神を畏れて生きる中でこそ、その知恵が運用されていくことが求められていたのだ。にもかかわらず、徐々に問題が起こりはじめ、当然それが後の混乱を引き起こしていくのである。彼は神の真実に対し、信仰と従順とをもって生きることが求められていた。しかし、彼はその知恵を信仰によって運用するのではなく、人の思いや、考え、価値観の中で使い、神に信頼する道に歩まなかったのである。私たちも与えられた賜物の用い方を誤らないように注意していかなければならない。
 また、この書にはソロモンの食事についても書かれているが、ここからもわかるように彼らは満たされていた。イスラエルの民たちが穏やかに暮らしていた実態が記されている。約束された地に祝福が与えられた事実を聖書は明確に記している。誰かに追われたり、心配をすることなく農業をし、そこから豊かな祝福を受け、自らの生活を潤している時代であり王国となった。これは、信仰が無くては至らなかった地点、「祝福」である。神を信じ、生きる中で彼らは祝福を受け取ることができる。アブラハム、イサク、ヤコブに約束されたように、彼らがその祝福を享受できる時代となったのである。
神の目にはあっという間に過ぎてしまう私たちの生涯だが、神は必ずこの小さきものをも祝福してくださっている。もちろん全く問題がないわけではない。ただ、その中にあって、神を畏れ歩む信仰によって、その日々の祝福と感謝を私たちのものとしていきたく願う。


Q:ルカの福音書12章でイエス・キリストが貪欲について怒りを持たれたということが礼拝で語られていましたが、本来私たちが受けていいはずの権利を主張することがなぜ、貪欲ということにつながるのか詳しく教えてください。

A:礼拝の中で語ったのは「貪欲」という問題に気を付けなければならないことである。彼が「財産を分けるように言ってください」と便宜を図ってほしい旨をイエス・キリストに頼むことそれ自体は世の中的に間違いではなかった。イエス・キリストを真のメシアだと思っていなかった者たちは彼を先生「ラビ」として扱っていたからである。それほど彼は多くの人たちからの支持をある意味で得ていた。そして、実際そのように何らかの問題が発生したときにこのようなラビと呼ばれる者たちを間に挟み、便宜を図ってもらうということがあったのだ。だからこそ、彼も、イエス・キリストを偉大な先生と扱い、このように当然の権利の主張に便宜を図ってほしいと頼んだのである。しかし、イエス・キリストはこれに対し、拒絶の言葉を口にしている。これによってイエス・キリストは積極的な意味において、当然の権利ですら貪欲であると述べているのである。何故ここで必要以上を求めていないのにもかかわらず貪欲と呼ばれるのか。貪欲とは自らの手に入らない物をもっともっとと求めることではないのかと思うかもしれない。しかし、イエス・キリストは神から与えられたものによって善しとするのではなく、さらに自分の権利や財産を拠り所として生きようとすることを貪欲であると言ったのである。
 彼の求めに対する返答としてキリストの怒りが示されているが、その後、イエス・キリストは群衆に向かって言葉を掛けながら、彼の価値観の中にある貪欲を伝えることによって神の福音を表そうとされたのである。権利を主張すること、それ自体をするなというのではない。ただ、私たちが自分の権利や主張を拠り所とし、自らの人生を建てあげようとするとき、神が本来与えようとしているもので満足するのではなく、自らの求めることが中心であることをとり上げ、それが問題であると述べられているのだ。それこそがキリストの語る霊的価値観であり、私たちの持つべきものなのである。それによって自分の人生や行い、考えというものを改めつつ、注意しなければならない。
 また同時にこのような福音の価値観は私たちが周りにいるものを判断する基準となるのである。その人をいい人、悪い人と判断するのではなく、相手の良いところと足りないところを吟味しながら、自らにも同じ物差しを当てはめることが求められている。しかし、注意しなければ、これは相手の悪いところだけを上げ、自分の悪いところを吟味にしたり、改善せずに過ぎてしまうということにつながる。だからこそ、私たちは神に導かれる中で、自らをこの価値観と福音の中に入れていくと同時に、自らにも変革を受入れていかなければならないのである。
 これは今、礼拝で語られている説教の主題「神の時」につながるのである。私たちが変革していくことができるために神はその時を用意されている。そしてそれは一時のことだけでなく、様々なところにちりばめられている。先日、証の中で有事と平時という話が語られていた。何年か前に私が説教で取り上げたところである。平時とは日常であり、何も問題がない時である。対して有事とは普段と違う何らかの問題、事柄が起こった時のことを表している。当時私はこの「有事の際に私たちは有事への対処が必要であるにもかかわらず、それを見て見ぬふりして放置し、平時のように通り過ぎてしまうことが問題である」と語った。では私たち信仰者にとっての有事とはなんであるか。それは「罪」という問題に関してのことである。私たちは自らや愛する者の罪に対して敏感に反応していかなければならない。そして、それを排除していくことが必要になる。しかし、あたかも平時であるかのように取り繕い、私たちは有事つまり「罪の問題」から目をそらしやすいのである。
 次のメッセージでルカの福音書12章18-21節のとこを語ろうと考えていた。この箇所には収穫が多くて倉を建てたにもかかわらず、次の日に命が取られる者のたとえ話がなされている。これがイエス・キリストのメッセージである。それは彼が働きの中で当然、得た報酬であった。しかし、彼はその命が取り去られなければならない。それは彼の命を担保しているのがその報酬ではなく神だからである。彼はこれだけあれば自らの生涯は安泰だと思った。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」と。しかし、それは誤りであり、神を無視した考え方である。私たちがどれだけ自らを様々なもので満たそうとしても、結局神の前にそれは無価値であり、意味のないものである。これと同じで、私たちが安心し、満たされるためだけにある権利は神から与えられた本来の報酬ではなく私たちの貪欲という罪につながるものである。権利を行使してはいけないということではなく、権利によって与えられるもの、この世で自らを満たすようなものに目を留め、それに寄り頼むことが誤りなのである。だからこそ、私たちは自分の持っているものに安心して、その生涯の担保として喜ぶのではなく、神を恐れ畏みながら、神から与えられるものによってその日々を守っていかなければならないのである。


Q:バプテスマのヨハネとイエス・キリストの関係を考えたのですが、ヨハネは直接洗礼を授けた時にイエス・キリストに対して「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに」と語っていました。しかし、マタイの福音書11章1節―5節のところで自らの弟子を用いて本当に彼が救い主なのかと確認を取ろうとしています。これは彼がイエス・キリストが本当にメシアであるという確信を得られていなかったからなのでしょうか。だからイエス・キリストも「誰でも私に躓かない者は幸いです。」と語ったのでしょうか。

A:私はそのようなとらえ方でよいと思う。ヨハネをそんなに特別視する必要はないと考える。私たちの営みも色々なものに揺さぶられながら築き上げられている。ヨハネ自身も獄屋に入れられ、その死期が近いことから、焦りや戸惑いを抱えていたのだろう。ヨハネはその信仰に生き続けている実態があった。彼は確かな信仰を持っていた。ただ、それでも救いに至るのは、イエス・キリストを救い主として信じるかどうかということにあった。もしかするとヨハネもイエス・キリストに「わたしがそう(救い主)だ」と断言してほしかったのかもしれない。ただ、人間はそのように語られても疑いが晴れるわけではない。「私がそうです」と言っても「本当かな?」と信じきれないということもある。その意味もあって、キリストはこれまで行われたことを伝え、そこから自分で信じるか、信じないかを選び、勝ち取っていかなければならないと語ったのである。ヨハネにもキリストに躓くリスクがあり、だからこそ、イエス・キリストは「わたしに躓かないものが幸いである」と述べたのである。私たちも同じような状況にありながら、イエス・キリストを信じ、その救いを勝ち取っていかなければならない。
 私は老牧師の死によって4か月ほど落ち込んだ時期があった。ただ、それは様々な恐れが沸き起こったからである。そしてそのような自らの心を前に、それが不信仰であるのかということを自身の心に問うという取り組みをした。そのなかで私がどうしていくべきが、イエス・キリストが行ったことをもう一度考えながら、私たち自身を戒めていく必要がある。
 このような聖言を読んで私たちの信仰を確立するための営みをしていかなければならない。当時の人たちはだからこそ、イエス・キリストの行ったことやその言葉から信仰を確立し、信じていった。私たちはキリストを直接見ることはできないが、聖書を読み、語られている事柄を「ああそうなんだ。私たちのために十字架にかかられた方はこの方なんだ」と信じ、信仰を確立していくことが大切なのである。
 必要な真理をどのように確立していくべきか。自らの確信や真理を「神様どうぞ与えてください」と祈ることももちろん必要だが、それだけでなく、それを信仰をもって学ぶことが重要だと考える。この答えは簡単にわかるものではないし、誰かが教えてくれるものでもない。だからこそ、何を用いて学びを行っていくかということが重要である。その際には誰と学んでいくべきだろうか。そのような人を見出すと良い。あなたの場合は夫婦で語り合いながら、それを分かち合い、意見を交わし、必要な真理を夫婦で突き詰めていくべきであろう。それによってあなたが誰かに伝える際にうなずきをもって神の真理を受け取れればよいと私は考える。ただそのようなことを行っても、自らにうなずきが与えられないときがある。しかし、それで落ち込むのではなく、なおもその問題を持ち続けているときに神が様々なことを通してそれを与えてくださる。話が飛躍するが、そして同時にそれを用いて伝道していくと、相手が救いに導かれるということが起こってくるのである。ただ、それもあなたが満足するだけでなく、導かれた人が救われることをただ願い、様々な方法を通して、アプローチしていくことが必要である。一本杉の教会で行われている三浦綾子文学公演礼拝の中で、「三浦綾子の救いのために前川正という人が自らを打ちたたくようになるまでに心を注いで祈ったということが語られていた」と先日更師の証の中で語られていたが、私たちもそのように祈るほどに本気になって福音を行っていく必要がある。もちろんそれほどになって祈るまでの召しが与えられるのである。だからこそそれは私の仕事だ、召しだと思えるかどうかが重要である。「私にはそれほどの力はないです。前川正という人はとても信仰熱心だったから、あの人は特別だから」としてしまうのではなく、私たちもそこまでの信仰をもって取り組んで行くことが基準とならなければならない。そのためには苦しみや、悩みも出てくる。しかし、そこから、神に対する叫びが生まれ、共に戦っていくことができるのだ。もちろんそれでも救いに至らないということもある。ただ、私たちはその中で召されたものとして関わっていく必要があるのだ。


Q:「貪欲」ということが心に留まりました。これに関して、私は有給休暇のことを考えていました。当然とって問題ないならいいのですが、それを気楽にとることができない雰囲気に権利が主張できないと思うことがあるのですが、このような権利を主張しないようにするということなのでしょうか。もう少し貪欲についてどう考えるのか教えていただきたいです。

A:そちらに焦点が当たっているのではない。当然の権利を求めることを貪欲と語ったのは、それが一番わかりやすい表現だったからである。イエス・キリストが言わんとしていることは人間の本性というものが、そのような形で如実に表れているということなのだ。私たちは神の御支配の中で生きていて、神がそのすべてのことを決済してくださっている。だからこそ、私たちにいのちがあり、喜びがあり、救いがあるのだということを私たちは常に覚え感謝しなければならない。それをいつの間にか、毎日ご飯が食べられるとか、このためにはこの仕事があるのだとか、あの人との関係が私の人生を幸せにしているのだというような考え方に変わっていってしまうことを恐れなければならない。自分で自分の人生をコントロールし、それで自分を生かし、頑張らせ、生きがいにしていることは本来おかしいことなのだ。だからこそ、キリストはそのことを誤りだと指摘している。権利を放棄しろと言っているわけではない。ただ、それがなければ私の人生は成り立たないうものになってしまう存在があるということがおかしいと指摘されているのだ。とらえ違いをしないようにしてほしい。私たちは唯物的な社会に囚われないようにしていかなければならない。神の御支配の中で生きるということこそ本当に意味があり、そのことにこそ感謝するべきである。どうぞ心置きなく有給の権利を主張していただきたい。


Q:今、日曜日に一本杉の教会で子どもたちのための礼拝をおこなっていますが、子どもを導く際、どのようにすればよいか悩んでいます。先日お話の中で「天国に行ってみたいと思わない」と語りかけたら「行ってみたい」という小さな声が聞こえました。それが誰かはマスクで分からなかったのですが、そのような子にどのようにしてかかわっていこうか考えさせられます。昔は恵みの座というものがあり、救いに導く、迫る瞬間というものがあったと思いますが、私はこれから子どもたちに対してどのようにすればよいのでしょうか。

A:いろいろ取り組んでみるべきである。そしてその中で結果を出していけばいい。その経験をあなたは蓄積していかなければならない。その中で何人とそのような関係を築けるか。子どもたちに対して直接的にできるかもしれないが、その様にならないかもしれないし、何年後かにそれが実るかもしれない。それは私たちには解らない。もちろん積極的であるべきだと思う。失敗を恐れないで、取り組み続けていくべきだ。それが若さとしてできることだと思う。そしてそのためにはそのような取り組みをやり続けられる霊的体力、スタミナが大切だと私は思う。私たちが体力をつけるためにトレーニングをするように、霊的体力も、トレーニングによって増やしていくことができる。私にとっての筋トレは祈りだとするか、救霊の学びだとか誰かと語り合うこともいいだろう。それらをバランスよく取り組みながら、どのようにして推し進めていくか考えていくべきである。私もそのようなことを専門的にやってきたわけではないが、それでもわかることとして「現場を共にする人と、良くコミュニケーションをとる」ということが重要である。一般的な日常の仕事をしていて必要なことはコミュニケーションと信頼である。その中で互いの賜物を知りながら適材適所で効率よく行っていくことが重要である。逆に何が邪魔をするかというとプライドである。「あの人に頼らなくてもできる」と自分だけで取り組んで失敗したりする。本当ならば、その人と共に取り組んで、成果を上げて共に喜べたかもしれないのに、そうしないのはもったいないことである。もちろんそれでも失敗してしまうこともある。ただ、その失敗を繰り返すことなく、糧にしつつ次にきちんと活かしていくならば、あなたにとって必要なことである。そのような役割が私たちの担うべきところである。あとは神がみせてくださる景色に感動するべきである。神は必ず私たちの背後で動いてくださり、美しい「神の御業」という景色を見せてくださるだろう。その中には神の慰めや、励まし、赦しを感じ取れる。だからこそそれに感謝の心をもって取り組むことができる。私たちがそのような霊的なところを大切にしていると必ずこの美しい景色に出会うことができるのだ。
 私は先日、聖書研究会の感想の中で、祈りについてある姉妹が「私は岩次郎牧師にむかし祈るときは願いよりも感謝の言葉が多くなるようにと教わって、それを教会学校の中で子どもたちに教えました」と語った際、それに対して、違う姉妹が「私はそのことを姉妹が先生だった時に教会学校で教わって、私も子どもたちに教えました」と語り、更にはその姉妹の旦那さんが「僕も彼女と同じようにその姉妹から教わったのを覚えています」と語っていた。本当に二人の結婚は神が導き合わせたものだったと思い感謝をする。私にとってそれはとても素晴らしい神の見せてくださる景色である。また筆頭役員と成り立ての先生の関係も素晴らしかった。「私は兄弟とここまで取り組んできた」という若い先生の信仰告白に対し筆頭役員であるその兄弟が謙遜をもって答えている姿に素晴らしい景色を私は観た。
 それは私たちの霊性によって見える景色である。しかし、それをもってその所を過ごしていないと、全然違うことを考えていたり「ああ私はどう感想を言ったらいいかな」と考えていたりすると、それを見ることはできない。ましてや、うまく自分を見せるために語るような言葉は決して神の美しい景色にはならない。それは人間の作りだす「造形」である。神のきれいな景色の中に人間の造形が入り込むと一遍にその美しさを壊してしまう。だからこそ、自分が本当に神の景色の中に入り、神の臨在を感じながら取り組んで行くことが大切なのである。
 これからあなたも牧会者としてそのような取り組みを行っていくと思う。その中では、感謝なこともあれば、苦しいことも悲しいことも出てくる。その中でも、自分の造形によって自らを癒してしまうのではなく、神が与えてくださる景色を観て、感謝し、癒されていきたいと願う。そのためにも私たちの信仰生活を豊かに神が支配してくださる中で培っていくことが必要なのである。あなたもそのような景色を観て、神が与えてくださったことに感謝しつつ、どんどんと取り組んで行って欲しい。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)