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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-126  —

山本 咲


サムエル記Ⅱ 20章

  前回までのアブシャロムとの争いは彼がヨアブの手によって打たれ死んだことによって終焉を迎えた。ダビデは自分の息子アブシャロムを助けてほしいと願ったが、ヨアブはその願いを退け、彼の命を取ることとなった。そのためにその後の19章には息子を失ったダビデの悲しみによって彼のために戦い、勝利したはずの軍団が敗者のように悲しまなければならなかったことが書かれていた。このところから私たちは新約にも通じる敵を愛するということを読み解かなければならない。同時にこの戦いの中でダビデ軍はふるいにかけられたことにも目を留めるべきである。この機に乗じて立場を変え、アブシャロム側についたもの、それでもなおダビデを愛し、彼のために命を捧げて尽くしたもの、双方がそれによって自らの立場を明らかにしたのだ。その結果は書かれている通りである。これも私たち新約の時代の教会という共同体に通じるものがある。自分にとって益があるからその場所にとどまっているのか、それとも、神を信じ、困難な時であってもその場に自らを共に立たせ、信仰によって困難に立ち向かっていくのか。その姿から私たちの歩み方もその先に訪れる神の導きも変わるものとなるのである。
この出来事の後、ダビデがエルサレムに戻ってきたとき、ユダとイスラエルがダビデを迎えたが、ダビデは全イスラエルの為に戻ってきたのではなく、ユダを中心とした人たちのためにエルサレムに戻ってきたのである。だからこそ彼はこの後、自らの出身部族であるユダとイスラエルの扱いに差を設けた。そのことでシェバという人物がイスラエルを先導して、その差別はあってはならないと立ち上がることとなったのである。そして、ダビデが王であることが得策ではないと批判したのだ。この時の民はすでに王であるダビデに飽きてきているからこそ、なおも民はダビデに対して牙をむくこととなるのである。アブシャロムはダビデのバテシェバとの事柄による不祥事から始まり、その息子の問題をも放置した父親としての無能さに反乱を起こした。そして次は先ほど語ったようにイスラエルがシェバを中心とした形で反乱を起こしていった。このような反乱がおこる原因の一端をダビデの抱えた大きな問題が担っている。ただそれと同時に、神がそれを許され、この様な出来事を通してダビデと民を整え、神を中心とした国を形成しようとしておられるということが背後に流れているのである。
アブシャロムの問題も大きなことだったが、シェバのこともまた国にとって放ってはおけない問題だった。そこでこのシェバの問題に当たっていくため、対策を任されたのが、元アブシャロム軍の将軍であったアマサという人物であった。これによってダビデはユダとイスラエルをまとめ、ことをうまく進めようとしたのだ。しかし、このことはうまくいかなかった。自分の地位を危ぶむヨアブによってアマサが暗殺されてしまったからである。ヨアブは多くの問題を抱えていたが、同時に有能で手放しがたい人物であった。ダビデはそれゆえに彼を手元に置き続けた。今回のように重要な場面で彼がダビデの意をくむことがなくても、ヨアブを惜しんだのである。これは私たちも同じである。人間はそのような時なかなか決められない。手放さなければならないことを知りながらも自分の役に立つという部分で惜しむのだ。ダビデ自身も信仰をもっていた。ただ信仰者は「信仰している」と唱えているだけでは意味がない。物事を信仰によって決め、現実の物事をおし進めていかなければならない。私たちはその現実と信仰の間で、どのようにして信仰をもって現実を生きるかということが大切になる。現実に傾きすぎて信仰が疎かになってはならないし、信仰と口で唱えるだけで、現実的に何も動かすことができなければ意味がない。だからこそ私たちがその現実をどのようにして生きるかが求められているのである。ダビデも同じように現実を信仰によって生きようとしている。だからこそこのようなヨアブとのやり取りが彼には付きまとい続けているのである。
これからもダビデは常に神によって整えられながら、神に約束された永遠に続く王国を建てあげていく。それは彼から始まってついにはイエス・キリストにまで至るものとなるが、それゆえに彼はこのような状況の中で神のお扱いを受けていくのである。しかしそれは間違いなく、厳しいものだ。ダビデだから簡単というものではないし、彼も同じ人間だからこそ、過ちを犯してしまいそうになる時がある。このシェバとの戦いもそうである。ダビデは軍という大きな力をシェバとの戦いのために私物化し、シェバが逃げ込んだからと危うく一つの城壁のある町を滅ぼしかけた。このまま一人の女性が立ち上がらなかったならば多くの平和に生きていた人が滅ぼされていただろう。そしてそのまま彼は王という権力をふるい、本来ならば守るべき神の平和を破壊するものとなり、結果として本来神の国となるべきところが欲望が渦巻くような王国になっていたかもしれない。しかし、本来神が与えようとしておられるのは信仰をもった王と民によって平和に生きることができる王国である。そのためにダビデは軍を率いて周りの敵と戦い王国に平和をもたらす存在として王となった。それがいつの間にか混乱して、このような事態を起こそうとしていた。だからこそ女は訴えたのである。シェバは反乱という形をとったが、女は真実にダビデに訴えたのである。
サムエル記の記者はダビデを含め、私たち自身がやはり人に過ぎないこと、神を信じて生きていく中で、お互いを愛し、いたわりながら、共同体の中で平和を築き上げていくことを神が求めておられることを示している。だからこそ主義主張ばかりで信仰という名のもとに対立したり抗争したり、弱いものに負担を強いるようなことをしてはならない。私たちの信仰は大切なものを見失うことなく守り、神の望まれる御心を求めることによって平和を作り上げていくものとなるべきである。御心と言いながら、自分の心の望むままに行って人々のもとに混乱を起こしてはいけない。常に遜って神のみ旨を探りながら、国というほど大きなくくりではないが、家庭、職場という中で人々の間に平安を与えるものとなっていくことが求められているのである。
ダビデは晩年、過ちも犯し、困難をいくつも通ったが、確かにその信仰の生涯を全うした。その傍らにはいつも神がともにおられ、彼を導き続けたという事実が確かに聖書には書かれている。そして同時にダビデもまた最後まで神の御手に陥ることを選び続けたことが分かる。私たちもそのように天の御国に帰るその時までそのようにありたい。時に悔い改めが必要ならば、神のお扱いの中で自らを悔い改め、遜りながら一番傍にいるものを愛していくものとならせていただきたく願う。そのようなこともできず、自分が何でもできるかのような思い違いをして、罪を重ねるようなものとならない様に気を付け、また歩まさせていただきたい。


Q: 先日の礼拝メッセージの中で同じ空気を吸って生きているからこそ嘉納先生と咲先生の中に同じメッセージが育まれたという話を成されていましたが、これだけダビデの信仰の空気を吸っていながらも、ヨアブはその信仰を受け取ることができなかったのはなぜですか。

A: まずメッセージについてだが、それは私と咲先生だけに共通するものではない。少なからず、それは私たち家族の中に共通するものである。というのは牧会者の家庭の中でメッセージが育まれているからである。それは具体的な問題を含めたメッセージを言葉だけでなく、どのようにして現実の世に在って、その語られる神の言葉によって生きるかということが多くの面で共有されているからである。メッセージそれ自体は神の御心と聖言として語られる。それが現実の生活の中で具体化され、肉付けされていくが、私たちはその結びつけが家庭の中で行われているのだ。その結びつけが重要になる。家庭内で過ちに対する注意にしても相手に言うからには叱る側も自らの行動がそれに反してはいけないわけであり、そこに真実性が伴わなければならない。また注意を受ける側は、一面厳しいものとしてその注意を受けなければならないが、一方で、それが確かに未来的にその生き方を豊かにし、特に神の働きをするものとして整えていくものになるのである。
またそれは同時に牧会する者と受ける者との間でもなされていくものとなる。そしてそれは時に重大な決定などをする際に、牧会者のもとに行き「どのようにこの問題に当たっていくか」という話をすることにもつながるのである。それは決して牧会者が完璧で答えを知っているということではなく、神の道を共に探り、信じ、祈りあいながらことを行うものとなり、牧会者との交わりの中で「あなたはこのような告白をして歩みだしましたよね」という確かな信仰告白をともに覚える存在となるのである。それはそのことが神によってどのような結果に導かれたかを共に確認し感謝する機会となることや、逆に時々それがずれているときは厳しいようだが、指摘を行うようになるのである。これは自分の中だけで告白をして結局不真実にも都合のいい様にその内容を変え、自分の生きたいことに走ってしまうことを防ぐためである。人間の弱さはそのようなところに表れる。私たちは決意したところで簡単にそれを覆してしまいやすい。だから共にその問題を担う存在が必要なのである。それによって信仰を具体的に行って、ことを動かしていくことにつながるのである。牧会者はそのようなやり取りの中で実際に事が起こる場面を見せられる。だからこそ、それがのちにメッセージと結び付けられ、恵みが語られ分け与えられるのである。
だからこそ、メッセージは皆さんの必要な部分を私が感じ語ろうというときもあれば、一方で聖霊が普遍的に働かれ私を通して皆さんに語られるということもある。それは神の領域の中で行われることであるが、それによって語られたことを一人一人が自分に語られたものとして受けるときに信仰をより確かなものとして建てあげていくことができるのである。もちろんそれを自分に対してのものとして受け取る場合もあれば、私には関係ないことと受け取る場合もある。それはその人の問題であるが、ただ語られることを通して自分を変革していくことによって私たちの問題も少しずつ変わっていくのだ。そのようにして受けたものの中に生きて初めて神の御力もなされていくのである。信仰を掲げるだけで喜び、結局のところ何一つことが動かない。告白するだけで何も変わっていない。取り組んでいないでは何の意味もないのである。信仰に生きていくことはとてつもなく難しい。
ヨアブは物事を捉えることはできたが、信仰に生き、神の約束の中に生きることができなかった。それが出来ないということにダビデは悩まされていた。そのため最終的にはソロモンの時に彼は打たれなければならなくなった。私たちはそのようなことを含みながら物事を捉えていかなければならない。それによって自分を含めた周りの人の信仰に目を向けていく必要があるのだ。何もそれは信仰者として優れているとか劣っているとかを判断するものではなく、相手の足りない部分を補い、愛をもって助け合うために必要なのである。私たちが賜物を持っているのはそのようにして互いを愛し合うためである。例えば、メッセージを語るという一から生み出すことはできないが、聞いたことの要点をまとめ、重要なことを霊性によってとらえる賜物を持っているという人もいる。自分がそのような点で劣っていると思うならばその人に聞けばいいし、逆にあなたが自分の中から生み出すことに賜物があるというならば、その人にその話をすることで生み出されるものがある。そのようなことをしていく場が教会であり、そしてその一番の小さな共同体が家庭なのだ。 子どもたちが信仰というところに目を留め始めた時にその家庭が信仰を中心として動いているか、それともそれぞれ両親の思うままで動いているかによって大きく彼らの信仰の培われ方が変わってくる。両親が信仰に真実に生きていなければ、その価値観を見出すことはできない。だからこそ、私たちが大切にしているのが、家庭内で親が真実に生きるということである。そうしていれば子どもたちは同じように信仰に生きるようになるのである。子どもたちは冷静で残酷なところがある。親は一面子どもを愛するゆえにその子の悪い部分も抱えられるというものを持っている。しかし、子どもは一面「この親はダメだ」と切り離す力を持っているのだ。もちろん神が隣人を愛しなさいというからそんな親でも愛していこうという場合もあるが、あるところにいけば、最後のところはどうなるかわからないのである。
天にかえられた老牧師は一面咲牧師に厳しかった。その代わり、最も彼女を愛したといえるだろう。幼いころ彼女と毎日お風呂に入っていたのは老牧師でそれは年頃になったからと老牧師の方がやめるまで続けられていた。ただだからこそ、信仰に生きて、その真理に生きるようにと絶対に曲げないところを持っていた。厳しさはそれに耐えられるかどうかが問われる。聖書は困難に対し、逃げる道が備えられていることを語っているが、それはそこに愛があるからである。厳しさを乗り越え成長するうえで愛がその人に力を与えるのだ。


Q: 先ほどの質問の回答に、神と共に歩む中であっても簡単にはいかないということが起こるということが語られていましたが、ダビデは神に扱われたが安泰な人生ではなかったというこの状況はなぜ起こるのでしょうか。なぜその道を知りながら歩めるのでしょうか。

A: ダビデは神と人格的な交わりとを大切にした人である。神と人というとどうしても上下間の関係性を思い浮かべやすい。しかし、神の人格との交わりは私たちを横並びにする。 愛という形でくくっただけでも、旦那さんへの愛と、息子への愛など様々な形、方向があるように、神とも私たちは愛を持った関係を作り出せるのである。これは神が人格を持っているが故に互いを愛の対象とされたからだ。そして神は私たちを交わりによって育み、成長させてくださる。ダビデもそれを受けて、成長したのである。ただ一面神は神であるがゆえに聖である面を、私たち側には人間で愚かしく、決して聖には成れない罪深さがある。ただ、神はだからと関係を全く持たないということではなく、その罪を贖われることによって、互いを人格として交われる関係として置き、そのやり取りができる存在として私たちを扱われたのである。だからこそ私たちは神との関係を保ち続ける自分でありたいと維持していくのだ。その中には神だけでなく、神の愛する他者との関係を育んでいくことも求められている。ただ相手が人間である以上そう簡単に愛を全うすることはできない。イエス・キリストという完全なる愛の実行者であっても受け取る側が拒否すれば、その関係は築き上げられていかない。そのことは新約聖書に十分に語られている。それでもなお愛を実行しようとされたその姿に倣い、私たちは他者との関係を築き上げていくのである。だからこそ困難も同時に付きまとう。すべてのことがうまくいくというわけではない。ただ、それでも、その困難すらも神はその愛によって私たちの中で益へと変えてくださるのである。そして、私たちは神が召してくださったところ、その望まれるところを困難であっても歩ませていただく。
あなたもこのところまでに多くの成長が与えられている。それはあなたが、多くのことに取り組もうとしているからである。そこにはあなたが息子を愛し、彼をいのちの道へと導き、育んでいきたいという願いがある。なお愛をもって取り組んでいってほしい。


Q: 神の息吹というものを教会に満たすということが語られましたが、私はこの教会で礼拝の際に礼拝堂に満ちる緊張感も一種の空気感だと思うのですが、どのようにして保っていったらよいのでしょうか。

A: 緊張感というのは人がある場所に入ったときにどのような対応をするかによって築き上げられるものである。例えば礼拝中の緊張感は神の前に出るという礼拝をだらしなくどうでもいい時間として扱うのではなく、きれいに身なりを整え、自分を戒めて神に対峙するという思いの下で私たちが対応しているから作られるものである。緊張とはそういうものであり、また同時に日々の中でも全うされるものである。例えば、私たちは信仰者として他者の救いを願うが、それはその人個人のものである。その所を強制することはできない。ただその一方で自由ではあるが、神の真理の前に好き勝手にしていいものではない。神が生きて働いており、救いを与えようと語り掛けてくださっている事実を知りながら、なぜその道に歩むことを望むことなく、好き勝手にさせておくのだろうか。少しでもその相手が神を知ることができるように働きかけないだろうか。私たちはこのことを考えているからこそ、結婚や就職等の物事を慎重に進めるのだ。子どもに神の道を歩んでもらいたいと願うのに、なぜ結婚の問題をどうでもいいというものにしてしまうのだろうか。神を中心として礼拝を守ることを考えれば、日曜日等に働きが入るような仕事を避けるべきだろう。これら一つ一つに気を付けることが緊張感である。私たちはこのことを大切にしていかなくてはならない。これが私たちの信仰を守り、自らを真実に歩ませるものとなるからである。


Q: 旧約聖書を読んでいて、命のやり取りと殺伐とした、現代に考えられないようなものと戦いながら、信仰を生きてきていることを見るときに、私はこの世に在って命のやり取りはないかもしれませんがそれでも信仰を全うするためにも日々緊張感をもって生きなければならないと感じられました。

A: 私たちの周りに死がないわけではない。コロナもそうだが火事、地震、殺人、事故というものがある。ただ、私たちの周りにはないように感じられるだけである。ただ、実際考えてみれば私たちの周りにはそのようなものがある。逆に言うならば死から守られているということを数えてみれば、神から守られているという事実を感謝することができる。余計な緊張感を持つ必要はないが、シミュレーションはしておくべきである。家長は特にそのような時にどのような対応をするかで家庭内での権威を保つ者となる。家庭がパニックになっているときに、落ち着いて一番に対応することができれば、確実に子どもを含め、奥さんの心をつかむことができる。コロナウイルスが流行ってからはそのような中でのリスク管理が大切になった。今この教会内で子どもたちが多く与えられているが、その中でこれからどれだけこの子たちを守っていけるだろうか。そのためにも子どものリスク管理を徹底していかなければならない。例えば子どもとの空白時間が多ければ多いほどそのリスク管理はできなくなる。子どもがどこに行っているのか、今何をしているのかということを把握できる状況が必要なのである。それは幼いうちから行っていくべきである。そして、成長段階に合わせて子どもとのコミュニケーションをとりながら、その状況を把握することが必要なのである。時に子どもは大きくなれば嘘をついて行先をごまかすことも覚えてくる。「友達と勉強してくる」という言葉を鵜呑みにしていたら実はどこかで遊んでいたなんてことも起こるのだ。そのようなことを親は十分に把握して、リスク管理を行っていかなければならない。それは過保護とかそういうことではない。神に委ねられた命を守っていくために私たちが緊張感をもってあたるべきことなのである。
愛することは緊張感である。緊張感が足らない人は周りからだんだん人がいなくなっていく。なぜなら、自分が大切にしている部分を共に大切にしてくれないからだ。自分が緊張しているのに、「あーごめん忘れた」「このぐらいでいいでしょ」と言われてはたまらない。愛しているからこそ、相手の大切にしている部分を守っていけるのである。


Q: ヨシュア記14章のカレブについて書かれていたのですが、先生の視点からのカレブという人物について聞かせていただきたいのですが。

A: 私は彼も偵察を行ったときに恵みと同時に恐れを見させられた人物だと捉えている。これはあくまでも私のとらえ方だが、ヨシュアという人物はどれだけカナンの者たちが強くとも神が与えてくださると約束してくださったのだからそうなるというぶれない信仰を持った人物だと思う。ただカレブはそうではなかったと考えるのだ。彼はきっと恐れた。しかし、ほかの者たちと違ったのは、彼がヘブロンを偵察の際に訪れたからだろうと思う。彼はヘブロンにマクペラの洞穴(アブラハム、イサク、ヤコブの墓)があるかどうかと探しに行ったのだろう。そしてその地の人たちに聞いて先祖の墓を見つけた。そこで彼はいままでまるで遠い出来事のように感じた自らの先祖とその歩んだ道、そこに必ずともにおられた神の存在を見たのだ。だからこそ、彼は確かに恐れを抱こうとも、もう一度奮い立って強き信仰を心に持ち、偵察から帰ったときにその地を手に入れることができると証したのだと考えるのだ。ただそのような信仰をもって立ち上がれたのはヨシュアとカレブだけだった。彼ら以外は神の導かれる地を勝ち取っていくだけの信仰を抱くことができなかった。だからこそ、40年荒野をさまよわなければならなくなったうえに、この当時20歳を超えていた者たちの中で生きてカナンに入れたのはヨシュアとカレブだけだったのだ。私がそのようにカレブのことを捉えたのは彼がヘブロンの地を相続地としていただきたいと語ったからである。ヘブロンは決して肥えた土地でも豊かなところでもない。どちらかというと砂漠の地である。しかし、カレブはそこを相続地として願った。ほかの者たちはくじで相続地を分けたのに、カレブだけは自分の意志でその地を選択し、それを許されたのだ。それは彼の信仰のルーツとなる場所であり、彼の信仰をもう一度奮い立たせた喜びの地であったからである。彼は自分でその戦いに赴き、その地を勝ち取った。初めから揺らがない信仰を持てる人は確かに幸いである。しかし、彼のように自らの弱さを認め、もう一度神と共に歩む強さを願う時、そこに確信が与えられる。それはどのような形で私たちの前に示されるだろうか。ただこの教会も多くの人の信仰を受け継ぎここに建てあげられた。そして間もなく祈り求め神に与えられた新たな教会も建とうとしている。その道は決して簡単なものではない。しかし、そのために捧げられた多くの者たちの信仰が再び次の信仰者のそれを育て上げるのだ。私たちもその信仰を受け継ぐものとして、なおカレブのように確信をもって立ち続けていきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)