同労者

キリスト教—信徒の志す—

Q&Aルーム

—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-133  —

山本 咲


列王記Ⅰ 3章

 前回はダビデからソロモンへの信仰と王座の継承。そして、彼に委ねられた多くの者の罪に対する処理についての話を取り上げた。特に前回の章ではその視点をソロモンにあてるのではなく、このところで裁かれた者たちに置き語った。彼らはその裁きの執行猶予を与えられていたのにもかかわらず、恐れずに甘く考え、憐れみを軽んじたことによって断罪としての死を被らなければならなくなったのである。
ソロモンの時代は神の掟というものに自らを従わせられるかということが重要になっている。私たちの時代も同じである。神から与えられた日々の営みがどのようにして自らのものになっているのか。神からどのようにして、何故与えられたのか。私たちがどのようにそれに応えていくかということを考えていかなければならない。その中に神から与えられた召しというものが存在するのである。もちろん神がそれを与えられたのだからと言って、ただ神に知恵や力を求めているばかりではならない。神は私たちに日々の営みの中で成長が与えられるように多くの事柄を課している。だからこそ、神が私たちを導かれる道の中に歩みながら、その中で現われてくる困難をも感謝し、歩んでいく必要がある。自らを逃がしてしまうことは簡単であるが、それでは神が本来私たちに与えようとしておられる知恵や力を身に着けることなく時が過ぎてしまう。それは一時的には困難から逃れられて良いかもしれない。しかし、将来的に任せられるはずだった神からの召しに応えられずに悲しまなければならないことが起こってくるのである。ダビデとソロモンの大きな違いは、ダビデはほとんど王国制度、王族、貴族制度というものが形成されていない状態でその働きが進められていった。戦うことのために選ばれた職業軍人がそれを通し、貴族制や地位を形成し、それが王国の存続を支えるものとなっていったのである。 対してソロモンはそのような制度がある程度出来上がっている中で、神の国をどのようにして作り上げていくのかということが重要であった。ただ、彼は早々にエジプトのパロとの縁が結ばれた。彼はそのために神に知恵を求め、国を導こうとしていくのである。ただ、彼がこの様にして結んだ他の国とのつながりは異教の神を自国に入れてしまうこととなった。だからこそ、彼にもダビデのように神との関わりの中で御心を探り悔い改めが行われていく必要があった。このところには華々しいソロモンの知恵について語られているが、その一方で神から与えられたものを彼がどのように用いていくか、それは他者や国の問題だけでなく、ソロモン自身の行いにも向けられていく必要があったのである。聖書は今後の彼がどのようにそれを行っていくかという所に私たちが目を向けられるようにこの初めのところにその要素を入れている。ダビデは戦いの人であった。彼はその人生を戦いの中で培ってきたのである。対してソロモンの王政は平和の時である。もちろん平和であっても国のために戦う者たちは必要であった。いつ何時戦いということが起こってくるかはわからないような状況の中、備える者たちがいたのである。それは戦いの中に常に置かれていたダビデの時代の者たちよりも困難を極めるものであった。
ソロモンは平和の君と呼ばれていた。エジプトの娘を迎え入れたのもイスラエルがエジプトに並ぶほどの力をつけたということの表れでもあった。しかしそれは人の感覚、評価においてなされるものであり、イスラエルという神の国における評価を下される神の前には無意味なものであった。イスラエルの大切にしなければならない評価の基準は神がどのように見ておられるか、イスラエルが神の前にどのように歩んでいるかということだったのである。だからこそ、平和なソロモンの時代のなかにおいてこのことが問われ続けていたのだ。
そして何度も取り上げているこの平和ということも、神の国における平和は神に従い続けるゆえに与えられるものである。例え戦いが起ころうとも、神に従い続けているならば、イスラエルは平和なのである。平和という言葉の意味が変わってしまうのではなく、私たちはソロモンが置かれている状況をもう一度このようにして捕えて生きながら、彼が国を堅固にするために行ったエジプトとのつながりをどのように捉えていくのか、手法としては誤りではないが、神を信じ従い歩むものとして誤っていないのかを考えていかなければならない。与えられたものがどれだけ力のあるもの、素晴らしいものであっても神の前に私たちがどのように用いるかということでそれが良いものにも、悪いものにもなることを忘れずに歩みたく願う。


Q:以前この遊女の子どものことを取り上げて先生とお話をした際に愛する子を守るためには愛をもって危機管理をしていかなければならないこと、どのようにその人格を愛するかということを教えていただきました。子どもは大きくなってきましたが、そのことはなお変わらず行われていかなければならないと思うのですが、それでよろしいのでしょうか。

A:私は子どもを含め、全ての人格に対して関わっていく際に愛することが必要であると考える。特にこれからあなたには子どもたちだけでなく、あなたの両親との関係に取り組んで行ってほしいと思う。老いていくものに対してどのように関わっていくのか。もちろん子どもを捨てて両親を優先しろというではなく、両方を愛していかなければならない。人格との関わりは相手に対してどのような思いを抱いているかによって変わってくる。愛していると口では言っていても、本当にそう思ってなければ、相手の心を察知して行動することはできない。愛しているからこそ、その人格を喜ばせようと無意識にあってもその人格のために行動するのである。だからこそ、それができないならば、意識して愛する行動を選び取っていかなければならない。それをやり逃せば、気持ちはあっても対処できない、行動に結びつかないということになってくるのである。
神はソロモンに知恵、つまり結果を与えた。ソロモンが結果にたどり着くことができるような知恵を与えられたのだ。そしてそこまで神と関わり、関係を保つものであるようにと考えられているのである。私はよく「鈍感な人は幸せな人」であるというが、無知な人もまた幸せな人である。なぜなら無知は知らないがゆえにすべてのことをすり抜けてしまうからである。大切に思うことも、意識することもなく、ただただ、それを逃がしたことにも気づかずにいる。知恵のあるものは逃したことに気付く。それ故、後悔したり自らの行いの先を知るゆえに恐れ、困難な道を歩むことに自らを向かわせる。しかし、知恵の無いものはそれに気づかない。だから、その時は困難が何もないから幸せなのである。ただ、その時には良くても、最終的に彼らは幸せになれない人である。なぜなら、愛を全うできないゆえに愛されない者になってしまうからだ。彼らは最後に捨てられて終わってしまう。
先日、咲牧師がエステル記の説教において「最も大切なエステルという女性が王宮という信仰を全うできないような状況の中にある期間、放置されている現実がある」ということを語っていた。彼女は自らがユダヤ人であるということを明かせない現実の中、王宮でその出身を隠している必要があった。その中には祈りや礼拝、食事においても今まで守ってきた律法を犯さなければならない事も出てきたであろう。それゆえ彼女は大いに苦しんだ。しかし、それは彼女がこれから起こってくるユダヤ人虐殺から人々を救うためには必要不可欠な状況であった。ただこの出来事は彼女が招いたことではない。モルデカイが信仰のゆえとはいえ逆らったからハマンが憤り、ユダヤ人を虐殺せよという命令を出したことから起こってきた問題であった。彼女は「なぜ私がしりぬぐいをしなければならないのか」と思うことは自然なことである。エステルが「悪いのは私ではないのに」と役割を放棄することは普通の人から考えれば当然であるといえる。しかし彼女はそのようにして召しを放棄するのではなく、神の働きの中に自らを差し出し「死ななければならないのでしたら死にます」と語ることができたのである。それは、彼女が神の召しを正しく理解し、自らに与えられた役割としてそれを受け取ったのである。それは確かに困難な道であった。しかし、彼女は、その信仰に立って神の用意された御業を全うしていくのである。
実際、私たちの前に神から与えられる召しというものを断る理由を見つけ出そうとすれば、捨てるほどある。無知はさっさと逃げだせる。なぜなら、自らがその召しに応えられなかったとしたらということを考えないからである。ただ知恵あるものは恐れるゆえに、最後までその場所で取り組み続けることができる。それは困難なことも多い。ただ、その先には神が助けの道と共に多くの恵みを用意してくださっているのである。だからこそ、相手や問題に対して言い訳を探し避けて通ることを常としてしまわないようにすべきである。


Q:今日のソロモンの話の中で「彼は知恵が与えられたが、神を畏れてそれを自らの実生活に活かしていけるか」ということが重要であったと語られましたが、私はこのことからマルタとマリアのことを思い出されました。必要なことをやっているのに呟いてしまっている自分がいるのですが、本当に必要なことは一つだけですという一つをどのように見つけ、呟かずに行うためにはどのようにしたらよいでしょうか。

A:先日の咲先生は説教で老牧師の前に自らを置き続けたということを語っていた。彼女が良く老牧師より語られていたのは食卓だったが、彼女は立ち上がって逃げることはできた。ただ、そうしなかった。なぜなら彼女は老牧師を祖父として愛していたからである。その語られる内容は聞きにくかったり、厳しかったり、彼女が聞かなくても良いようなこともあった。そういう意味では老牧師という人格が行っていることは彼女を苦しめた。しかし、彼女は老牧師を愛し続けた。だからこそ、彼女はそのなかで聞きにくいことを聞きながら、大切な要素を逃さずに自らの中に蓄えることができたのである。あなたが愛する者たちに関わっていくのも同じである。さきほど質問の中で子どもだけでなく、両親にもかかわりなさいと語ったが、それは小さな子どもを育てるのにも年寄りとの関わりもどちらも短い期間しかないなかで、愛を実行していかなければならないからである。「三つ子の魂百まで」というが、幼い間に形成されたことはその人格の大切な要素となる。だからこそ、その時期までの短い間に熱心に関わりなさいということを語った。そして同じように老いたるものも、その先はあなたたちの思っているほど長くはないかもしれない。もっと長生きすると思っていたのにということも起こりうる。だからこそ、そのような時に愛を全うすることが必要なのである。彼女は聞けないことや、選ばないものを愛ゆえに選び取っていった。その知恵を得る力は愛ゆえにできたことである。そのような中に自分を置いておけるか、それが大切なエッセンスとなるのである。困難な中にこそ学ぶべき知恵がある。だからこそ相手をその部分を含めて愛せるかどうかということが何より重要なのである。しかし、ほとんどの人たちがそこにたどり着かない。困難を前に愛することをやめてしまう。あなたには愛を全うできるものになっていただきたく願う。そうすればその中に本当に大切なものが見えてくるのである。


Q:3節のところで「ソロモンは主を愛し、父ダビデの掟に歩んでいたが、ただし、彼は高き所でいけにえをささげ、香をたいていた。」と書かれていますが、高き所でいけにえをささげることが御心に反することだったということでよろしいのでしょうか。

A:実際は未だ礼拝する場が整えられていなかった。この後に神殿が建てられ、礼拝する場が整えられて、改正されていくことになっていた。神殿が建てられるまでの間はこの高き所でいけにえが捧げられ礼拝が行われていたのである。高き所はそれぞれの地域に昔からある祭壇などのことで、それは一面バアルなどの偶像礼拝につながる可能性があった。ただ、それがだんだん改善され、神殿が築かれたことで、そこで礼拝するべきであると定められていく。もちろん地域によっては距離の遠い者たちもいたが、それでもエルサレムの神殿まで訪れて礼拝を捧げることこそが必要とされていた。このようにして礼拝の場が整えられていくことによって、逆に浮き彫りになったのが、ソロモンの異国の妃との婚姻によって入ってきた異国の宗教であった。ソロモンが異国との関わりの中で必要と考え行われた婚姻であるならば、彼はこの異国の宗教にも注意を払い、神殿による礼拝制度の改正と共に異国の宗教を断じて否定していくべきであった。しかし、完全にこれが排除されることはなかった。それゆえにこの先の聖書において記者たちは「分裂後の北イスラエルに対してはダンとベテルの金の子牛の像の問題」、「南王国ユダは高き所が変わらずに用いられているという問題」を取り上げている。彼らはサムエルの教えを受け継いだ預言者たちで、神の視点を持ち続けて民の神への礼拝の姿勢が整わないことを取り上げているのである。彼らの改善できない姿は心から神を畏れていない姿であることが如実に見えてくるのである。
新約の時代はイエス・キリストを贖い主と信じて信仰を基本として健全な営みが求められる。そのために主日の礼拝を守り、聖言によって養われた生活を聖霊と助けと共に持っていかなければならない。その様にどこかで自らの信仰生活に改善を入れ、自分はイエス・キリストの救いを得て営みをし、畏れおののきながら整えていくことで改善することができる。それは長い年月持ち続けて、取り組んで行かなければならないものである。1年2年で変えられるものならばそれはそれで良い。ただ、もっと私たちの中に何年も手を付けられずに放置しているものがあるだろう。それは列王記などで語られる、「金の子牛の像」や「高き所」と同じである。それを自分の生活から外さなければならないのである。ただ気を付けていかなければいけないのは「致し方ない」という状況である。しょうがないと言ってしまえば、多くのことがそのままになる。金の子牛の像は北王国の人々が、エルサレムに行くことに困難があり、そこでダンとベテルで礼拝を捧げられるようにと作られたものである。確かに言ってしまえば致し方ない状況である。しかし、そう言っている限り信仰生活はすべてのことが整わず、信仰継承においてはこれが特に命取りになる。だからこそ、聖書は私たちに対して注意を促している。また一度改善されても、いつの間にか繰り返してしまうこともある。私たちは常に自分の生活をもう一度吟味し、整えていかなければならない。それにもかかわらずそのようなものを棚上げにして、「イエス・キリストの贖いなんです」「赦しなんです」「救いなんです」とお題目的クリスチャンであることは不遜でしかない。そしてそれはその人独自の宗教になってしまう。自分を整えることなく、聖言に従っていくものでもない。そんな自分の名前を冠したような宗教になってしまわないように気を付けていかなければならない。


Q:先日仙台一本杉キリスト教会で行われたMam’sBreak(子育ての会)の二回目の集会に出席していて、普段の本教会の礼拝より時間は短いのですが、エネルギーを使うような感じがしています。それがどうしてかと考えた時に、自分が未信者の方の前にクリスチャンとして接していくことに緊張感を持っていたからだということに気付きました。この事柄に対して私はどのようにしていくべきでしょうか。

A:私はそんなに力まなくていいと思うが、そう言ってもなかなか難しいかもしれない。どのようにしたら力まなくて済むかと考えていくならば、常にあなたがクリスチャンであることに緊張していなければならないと思う原因を探っていく必要がある。あなたが自然にクリスチャンとして日々を喜び感謝して生きているならば、自分がクリスチャンであることを現そうが現すまいが、他者にはその生き方がそのままどこかで「ああ、あの人はクリスチャンだからあんな生き方ができるのだ」「人とは違うと思っていたけれど、クリスチャンだったんだ」と結びつくのである。その方が人間の自然な信仰の現れである。逆にどこかで演じているようであれば自然ないつも通りの自分ではなくなり、そこに緊張が現れる。もちろんそれがすべて悪いわけではない。ただ、そのような自分の姿に「私は神の憐れみの中でイエス・キリストの救いを信じて生きているのだ」と飾る必要のないことを見出していくとよいだろう。それで誰かに「それでもクリスチャンなの?」と言われようとも、それもまた、あなた自身が自らの救いの中を御心と共に生きていることを表していくことが大切だと考える。もちろん、その中で是正が必要な部分や、変革が必要な部分は直していかなければならないだろう。ただそれも先ほどまで語ったように、すぐ改善できれば良いが、いつまでも変革できず偽っているようでは、本来のあるべき姿ではないのだろう。その部分には注意を払っていかなければならない。ただ重要なことは、あなたの大切な人にとって一番自然体の形でクリスチャンとなれることなのである。あなたにとってクリスチャンとしての姿を一番表していたいのは他者ではなく、貴方の息子だろう。ということはあなたのクリスチャンとしての姿を問われるのは家族の前である。ただ家庭の中において装っているかというと、むしろ一番自然体での姿がそこに表れているだろう。しかし、あなたの中で信仰を継承したい、救われてほしい人格は他者である前に息子である。ならば、彼の前でこそ本来あるべきクリスチャンとしての姿なのである。家庭において、一番自然な形であなたがクリスチャンとして息子の前に立てるならば、求道者の前でも、世の人々の中でもあなたは信仰者そのものである。それが本来必要な形であり、そこに緊張することは必要ないのである。


Q:語られている中で「結果を出す」という言葉にアンテナが張った自分がいました。私は過程がどうであったかということよりも最終的にどうなったかという結果を求める方が大切だと感じていて、今は様々なことに夫婦で取り組んでいるのですが、そこで与えられた結果を数えながら、なお取り組むことの大切さと、自らがその働きを途中で放棄してしまうことに恐れを感じております。私はこれを神の祝福だと感じています。

A:どちらかというとあなたの実家は結果ということを大切にする家だったと思う。先日語った内容においては結果ということの大切さが語られたため、あなたもそれに同意したのだろう。ただ、それは反面、結果というものばかり求めていると、結果で人を評価してしまいやすく、そのような目線になるリスクがある。だからこそ、結果は神が与えてくださった憐れみによって起こってくる祝福であると捉え、実を結ばない人をどのように扱っていくかが重要である。例えば、あなたがともに関わる中で相手を花開くものとするか、それとも、実を結ばない人を切り捨ててしまうことや、そのような人を周りにおいて自分ができることに浸って、優越感を得るものとなってしまうか。結果が自分を喜ばせるものになってしまうのではなく、神に栄光を帰すものになっていくように注意を払っていかなければならない。そうでなければ、自分に与えられた結果も、誰かに評価されることを求めて、主観に左右された中で取り組みへの力の入れ具合を出し入れするようなものになってしまうのである。それは真実な取り組みではない。
今日のところで取り上げられたソロモンの知恵も同じである。彼の知恵は際立っているが、その知恵が神と共にあるかどうかということが重要であることが述べられているように、あなたが与えられた良き賜物と良き成果を見た時に、それに伴った問題点にも配慮しながら、夫婦でよく考え、話し合いながら、感謝と共に歩んでいくこと。また、夫婦間を含め、あなたの周りに目を向け、どのようにその人たちと関わっていくかを考えていく中で、足らなさを補っていく関係を築き上げることが重要なのである。それこそが本当に神が与えようとしておられる結果なのである。そこには5年後10年後20年後があることを考え、歩んでくことが重要である。


Q:伝道者の書5章3節と7節に出てくる「夢」とは使徒の働きの2章17節の「夢」と同じですか。

A:本当は原語で探っていくことも必要だろうが、私たちはあまり原語までさかのぼって聖書を解釈したりはしていない。ただこの伝道者の書を読みながら、ソロモンの晩年を考えると彼の最後が収拾がつかずに終わってしまった事を残念に思う。彼は知恵を尽くしたが、彼の妻たちが彼を偶像に結び付けてしまった。そのまま彼はこの問題に収集を付けられず、身動きが取れなくなってしまった悲しさを抱えている。私も60歳を迎え、だんだんと老いるということを感じながら、夢を抱くこともある。ただ、私はどちらかというと現実主義なところがあるため、夢といっても現実と繋がるものや、途方もないものにではないような範囲のものが多い。ただ、その意味では一本杉の教会はこの教会がやり残したことをそのままにしないようにと考え、取り組んだ部分であった。というのも、私は老牧師と同じ部分ももちろんあるが、異なった牧会を行ったところもあった。その一つが家庭集会であり、築き上げたばかりの家庭で集会を行って、夫婦の問題に共に取り組んだり、子育てについて共に考えたりしてきた。一面この一本杉の教会での働きは、そうして育ってきた世代が取り組みの結果を表す場所として願ったものであった。そして後付けではなく、私の中で与えられた夢の通り、それが少しずつ動き出して、まさしく今働きがなされていると感じている。若い時から家庭と仕事だけでなく教会のなかで信仰の現場を持っていくか、特に父親がどのようにして信仰を持ち、夢を抱くかということが重要だと感じていた。一本杉の教会のことはもちろんソロモンのように直接夢の中で神の声が聞こえてきたというものではないが、私だけでなくこの教会が同じ夢を持ち、一つ一つのことが結び付けられ働きがなされていったと感じる。夢は絶対に必要だと感じる。そしてそれに向かって自らを燃やして取り組んで行くことが大切だと思う。その中で成功しても失敗しても神との関係の中で、培われていく大切なものとなる。また、夢は受け継がれる。その信仰の熱に賛同するものが与えられ、確かにその信仰と共に夢が受け継がれる。それもまた良いだろう。私たちの夢というまかれた種が、いつか必ず芽生える。そう確信できることに感謝を抱く。なお、私たちの教会は夢を持ち続け、なお自らを燃やして取り組み続けていきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)