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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-131  —

山本 咲


列王記Ⅰ 1章

 列王記の始まり。ここには一つの大きな出来事が書かれている。サムエル記の最後のところにはダビデについての出来事が書かれていたが、列王記では1章の時点ですでに次の王でありダビデの後を継ぐソロモンが中心となり、物事が取り上げられている。これがサムエル記と列王記の大切な区切りとなった。同時に王位の継承がここでなされたのである。初代王にはサウルという人物がたてられたが、彼はペリシテ人との戦いで命を落としてしまった。そしてその後王位はダビデへとめぐって行った。しかし、今回の王位継承の場合、ダビデはまだ生きている。これまでとは違う形でイスラエルにおける王位継承が行われようとしていたのだ。しかし王位の継承が未だどのような方法で行われるかということは示されていなかった。当時この出来事は多くの人の関心事だったことが推測できる。自分はそのようなことにはかかわらないという人物もいただろうが、王族、王に仕える者、貴族と呼ばれる人たちにとってこの出来事は重要であった。前例があればどのように進むのかということが推し量れる。しかし、彼らには前例がない。誰が次の王になり、誰に仕えることになるのか、どのようにして後継者を決めるのか。しかも、ダビデの長子は失われてもういない。このところで出てくるアドニヤという人物は存命している中で最年長のダビデの息子であったが、彼が継ぐということも決まってはいなかった。合わせてダビデがサムエル記の時代のように若ければすぐさま対応できただろうが、ダビデ自身神がどのような形で王位継承を行うかわからなかった。そしてその対応をとる前に老いてしまい多くのことが一人でできなくなっていたのだ。この箇所からは閉塞感や一触即発とした雰囲気を読み取ることができるだろう。ただそのさきに神の御心として王位を継承するのはソロモンであることが示されている。また、同時に、そこに支持するものたちの名をみると、ダビデが神にその身を捧げ、すべてを委ね歩んだ日々を共にした者たちであることが分かる。彼らは信仰者としてダビデを愛し、その力が衰え失われてもダビデの最後を信仰者として、神と歩んだ王として彼らは扱い、離れず彼のそばにいたのである。そして彼らもその先に一抹の不安を抱えながらも、誰かがこの王位継承に対して前に立って先導することも、王に進言することもなく、ダビデと同じように神がどのように事を行われるのかを信じ、待ち望み続けたのである。しかし、そのような中で一部の人々が動き始めるのである。私は今まで何度か取り上げたが、人間というものは様々な形で本音を明らかにする。そしてそれは一生懸命取り繕っていても意外と大切なところで明らかにされて、相手にその心を見抜かれてしまうことがある。アドニヤという人物が王になろうとしたとき、彼はダビデを愛しその傍にいるような人々には一切声をかけなかった。彼らは呼ばれなかったのだ。しかし、その反面、ヨアブと祭司エブヤタルに声をかけ味方につけた。アドニヤは彼らの中にあるダビデの元では満たされなかった想い、神の御心の前に果たされなかった想いを見出したのだ。だからこそ、彼らに声をかければ自分になびくだろうと考え、実行し事実彼らはアドニヤに味方した。同じようにアドニヤに声をかけられ、彼のもとに集まった者たちがいたが、彼らは本当に大切なものが見えていなかったのである。
私たち信仰者は神がことを動かされるということをよく考えていかなければならない。アドニヤたちが立ち上がりことを起こしたことによって、なぜ神がここまで王位継承に関して時を置かれたのかということがダビデの心と神の御心を信じた者たちには明らかになった。彼らには神が時を定めておられたことが分かったのだ。そして、だからこそ彼らはソロモンを王として立てあげるために神の御心、ダビデの信仰を成就するために動いたのである。私たちも同じように神の時を知り、神が選びことを起こされる瞬間があることを信じ待ち望んでいかなければならない。私たちはどうしても晴れ晴れとした思いや、見栄えのいい形で何かを成そうと思いやすい。神がそのようになさるのではないかと勝手に思ってしまうのだ。しかし、神の選ばれる時や御心はどのような形で現れるかわからない。ここに書かれてあるように、敵になるような人達の抜け駆けを察知し、それに巻き込まれて、滅ぼされないように対抗していくという一連の出来事の中で神がこの時を選ばれた意味や、その御心を知るのである。しかし、そのためには日々備えていくことが必要になる。ナタンやバテ・シェバをはじめとした人物たちはダビデを通して得ていた神の言葉を実行するために行動していった。その裏には彼らの日々の備えがある。それは決して彼らが共に備えていたものではない。それぞれが自分の立場や責任に応じて何かあったときのために、自らが用いられるその時に動けるように備えていたのである。そしてダビデの側近と呼ばれる、彼を愛した人々はその立場や権限を用いることができるだけの力を備えによって得ていたことで、このことを成すことができたのだ。しかし、備えができていなかったのなら彼らはその愛がいくらその思いにあろうとも実行するだけの能力はなかっただろう。もちろん神の御心は必ずなる。しかし、そこに備えをしなかったものの姿はない。神の時や御心を成すために備えを怠ることをなくしていかなければ、私たちは召しに応えることはできず、愛を成就することもできないのである。神は御心を私たちの前に示される時、私たちがその御心を前にどのように生き、備え、神の業を信じて待ち望むかを見ておられる。私たちが怠惰にも「神の御心は必ず成就する」と何もせずにいるならば、それもまたみられているのである。だからこそ、私たちはいよいよ神の僕として備え、神の御心を生きるものとして、日々を歩みたく願う。


Q:今日の箇所の中でダビデ側の人たちが自分のやるべきことが分かっていたのに対して、アドニヤ側の人たちの姿はあまりにも稚拙な感じがするのですが、。

A:ダビデも次の王位継承者がソロモンであるということは神との約束の中で御心として受けていた。しかし、それがこの時点で現実に動いてはいなかった。そして神が実行されることを待つ間に彼は年老いてしまい、積極的に動いていくことができなくなってしまっていたのだ。なぜもっと早く行わなかったのかということをいうのは簡単だが、ダビデもどうなっていくのか、どうすべきなのかということが分からなかったのだ。王位継承自体様々な方法がある。だからこそ、彼が生きている間にことが行われ、継承されるのか、彼が死んで後に行われるのかもわかっていなかった。すべて神の意志を待っていたのである。
アドニヤ自体は年齢的な王位継承順を考えれば、彼がその有力候補であったことは確かである。またヨアブと祭司エブヤタルであるが、ヨアブは実質上ダビデの次に権限のある人物であった。ただ、彼が果たして神の御心を成すかという点に関してはこれまでの彼の姿を聖書から見てきた私たちですら疑問視するだけの要素であふれていた。また祭司エブヤタルについてであるが、彼はエリの末裔であった。エリの家系が祭司職を失うのはエブヤタルのこの出来事によって行われる。ただ、彼は命まで取られることはなかった。アドニヤとヨアブはその命を失うこととなったが、彼は生き残った。アドニヤとヨアブにはそれだけの罪があったことが分かる。ヨアブに関してはダビデが直接ソロモンに彼をそのままにしておいてはいけない、彼を裁かなければと告げているということもありそれが実行された。それだけのものをヨアブという人物は抱えていたのである。またアドニヤは一時執行猶予を与えられて、どのように生きるかを見られていたところがあった。この執行猶予に関しても私たちはよく考えていかなければならない。この時に私たちはどのように生きるのかが見られている。今生かされていることが執行猶予の故であると恐れ、本気になって悔い改め、回心していかなければ、滅びを免れることはない。アドニヤは本気で自らを変えることができなかった。それゆえに彼は再び愚かを演じた故に、滅ぼされていったのである。
また逃げた人たちに関してだが、彼らは呼ばれただけで、状況が分かっていなかったともとらえられる。ただ集められたのだろう。そして、その者たちの中からもソロモンとそれに与する人物を省いていることから、アドニヤの心根が見えてくるだろう。 私たちの日常において王位継承ということはないが、この書にあるように私たちは人間の心、その本質というものが隠していても現れるということに気を付けて観察していかなければならない。その人が本気で自らの心に手を入れているか、そこに是正がされているかということが重要になる。その部分を放置し、手を入れずにいるならば、晩年にその部分が明らかになるのである。 ヨアブとエブヤタルにはその隙があった。だからこそ、アドニヤはそれに付け込み、自分の味方につけたのだ。本当の意味で神の側について信仰によってことを行っているならば、彼らにその隙は無かっただろう。アドニヤも実際そのような人物には声をかけていない。であるからこそ、アドニヤに声をかけられた二人は信仰を抱くことができなかったという事実が露呈しているのである。 先ほども語ったがこのようなところは老いたときあらわになりやすい。どれだけ整ったように装ってきても、晩年にはほころびが目立つようになる。もちろんそれを老いる前に整え、是正していくことが必要だが、一方でそれができなくても自分が老いたときフォローし愛し、ひどい形で露呈しないように整え取り成してくれるような人たちとの関わりを持つことができるかということが重要なのである。
事を行おうとすると、その人の本音が見えてくる。神の御心を求めるがゆえに行動を起こせずに歯がゆい思いを抱いている状況が垣間見えるのがこの一章なのだ。だからこそ自分で動いてはいけない。神がどのように動かれるのかを信じて待たなければならないのだ。どれだけ良いことを行っても、その人の本質がどこにあるのかということによっては、評価されるような出来事も評価されない。神が動かれること、その御手を伸ばされるその瞬間を待ち望みつつ、自らを差し出すことが私たちに本当に求められていることなのである。神の御心なのか、私たちの心を神の御心にすり替えてしまっているのか、私たちはよく吟味していかなければならないのである。


Q:家庭集会の中で霊性を保つという話を聞いて、今更ですが宗教性と霊性との違いとは何なのかと考えさせられたのですが。

A:私は厳密に定義して用いているわけではないが、霊性とは目に見えないものであり、それを注視して、求めて得られるものであり、一般的に目に見えてわかることではない。心と信仰によって築かれていくものである。宗教性とは「私たちの生きている日々の営みの中でどのように周りや見ている者たちに映るか。その行動や判断の根底に宗教があるかということがとらえられるもの」として語っている。例えば子どもに対して日々すべてのことの初めと終わりを祈りによって行っているかということや、物事の決定の裏に神を畏れ生きているからという理由があることを示したりすることである。そのような意図をもって私は語っている。家庭集会の中であなたは「旦那さんの礼拝中、隣にいる子どもへの関心が薄く、注意を払っていないということを言ったとき旦那さんが説教に集中することで家庭の霊性を保とうと必死なんだとかえしてきたのですが、どう思われますか」と私たちに投げかけてきたとき、私は確かに彼が必死に礼拝を聞いていることを語る側として講壇で感じていると答えた。ただその答えは別にあなたが間違っていて、彼の方が正しいとしたのではない。ただ、そこに様々な賜物があることや、家庭での責任において家長が家庭の宗教性を礼拝のメッセージによって担保していることは妻としては感謝すべきことである。そこから私が語ろうとしたのは夫婦がお互いを尊敬することの必要性である。その尊敬が愛を形作る大切なものの一つになると考えるからである。この世の中において、愛を形成する要素は様々であるが、一般的に初めに夫婦を繋ぐのは恋愛、互いに好意を持つという感情である。その裏には相手の内面や外面に好きなところを見出し、相手へ向ける愛情を形成していくものである。しかし、それはきちんとした土台もない感情的なものであり、理性的な面から遠い一面がある。だからこそ離婚など、相手の愛した部分が失われることによって愛情そのものをなくしてしまうことが起こりうるのである。信仰者はそのバックに信仰的尊敬や、信仰の価値観を置くことによって、その愛を保っていくのである。
最終的には神が私の伴侶として与えてくださったのだということを捉えて、お題目ではなくその中で嫌いなところや相手への不満をも乗り越え、神が結び付けられたお互いを支え、愛していくことが求められているのである。 以前聖書を学ぶ会でサムエル記Ⅱ23章15節のところから語ったが、ダビデの勇士はダビデが「ベツレヘムの水が飲みたい」と言ったときに敵陣の中に身を賭して命を懸けてその水を持ってきた。それは彼らの誇りやプライドを守るためではなく、ダビデの所望したものの背後に神がおられることを信仰から捉えてのことと語った。彼らはダビデが神と生き、そして自らもその信仰に触れることによって、同じように神への信仰を培ってきたのである。だからこそ、彼らはダビデの背後におられる神の存在を知るまでに至ったのである。この出来事と同じように、10年20年と歩んでいるうちに伴侶者の背後に神がおられ、神が所望される故に仕えるお互いであるようにと夫婦の関係も築かれていくのである。夫婦の間に子どもがいるうちは良い。なぜならその存在が夫婦の間を取り持ってくれているからである。しかしいずれ、二人の間を結び付けている子どもという存在はいなくなる。そうなると、相手との関係が維持できなくなる者たちがいる。相手に対する愛を形成できていないからだ。しかし、私たちはそのような中でも相手との関係を維持し、互いを結び付けた神の導きを信じ、信頼し、愛を全うしていくものでありたく願うのである。引き続き取り組み続けていただきたい。


Q:先ほどの話の中で気になったところなのですが、ダビデが、バテ・シェバに対してソロモンが王になるということを伝えていたと語られていましたが、そのことは周りに対して公になっていたのでしょうか。

A:姦淫の罪により、バテ・シェバとダビデの最初の子は死ななければならなかった。その後、それを悲しむ彼女との間に再びできた子どもがソロモンである。ダビデにソロモンが次の王になることを告げたのは預言者ナタンであり、それは神からの言葉であった。それが公になっていたかは定かではないがダビデが決めたのではなく、神の御心がそこにあったことは事実である。ただ預言者の言葉をどのように捉えるかは個々人に委ねられている。それが本当に神から出たものであり、神の威光と神の御旨が語られていると信じて従うのか、それとも、信じなかったり、神の御意思や、その先に神が何をなさろうとしているのか見えたら信じますといつまでも動かなかったりと、結局神の御心を成すことができないままでいるのか。これは現代も同じである。当時の預言者が今の牧師に当たる。説教によって神の御心が語られるということがあるように、この時代の預言者も神の御心を語る人物だった。だからこそこの存在を認め、その言葉をどのように用いていくかによって、信仰者の歩み方が変わったのである。
この王位継承に関してもナタンが勝手にソロモンを指名したと思う人もいなかったわけではない。その背後には次世代がどのようになっていくのかということが深く絡み、それによって人生を左右される人が多くいることも事実である。これはそう簡単な話ではないのだ。
例えば、神の御心によってあの国とは貿易をしないということが預言者によって語られたとしよう。そしてそれが実行されたとしたら、どうなるだろうか。その国と商売をしていた人たちは神の御心によって商売ができなくなってしまうのだ。そのようなことをどのように捉えていくかということが私たちにとって重要なのである。自分がそのような立場になったと考えてみなければならない。神の御心によって進められた出来事によって自分が何らかの損失を被ることが出てくることもあるのだ。実際そういうことが起こってくると、「私たちから奪うなんてそんな神は信じない」という人も出てくるかもしれない。しかし、そこで私欲によって動くのではなく、そこに何かがあるということを信じ、そのできごとをも受けていくことが大切なのである。その先に、従うからこそわかるという真理が見えてくるのだ。
教会はそのような真理を保持していくために必要な存在である。牧師や信仰の友と神の御心を求め、従い、その中に真理を見出すために取り組んでいくことができる。そして、互いにその物事がどのように神の御手によって導かれたのか、失われたものが、何を生み出したのか、捉えそのことを恵みとして分かち合うことができるのである。そこで初めて神の真理と恵み、憐れみ、祝福を私たちは心から享受することができるのだ。だからこそ、その中に長く自らと自らの愛する者たちを入れていこうとすることが大切になってくる。神の御心が、その意味が見えてくるのはいつになるか。明日か1年後か10年後か、もしくはもっと先か、それは分からない。だからこそ、そのことを捕らえようと取り組みながら、一つ一つのことを吟味していきたいと願う。そこで見出した真理は何ものにも代えがたい恵みとなるからである。


Q:先日の礼拝の中で悔い改めの実ということから、生活の焦点がそこにあてられていかなければならないということが語られていました。説教の中でははっきり「これです」という答えは与えられなかったと思うのですが、そのことを日々の中で考えていて未だ答えにたどり着いていません。詳しく教えていただければと思うのですが。

A:先日の説教で語った内容は「悔い改め」ということだけでなく「実」ということに焦点が当たっている。ただ悔い改めればいいということではない。そこには必ず変化と、それによって収穫されるような「実績」がなければならないのだ。「イエス・キリストを信じます。もう二度としません。」と言うだけならだれでもできる。私たちに必要なのは罪を犯していた自らがどのように変化するかということである。それによって得られる実績とは何であろうか。信仰を得たことによって変化した姿を見た人たちが、彼の中の信仰に目を留め、それが神によってなされたということが証しされることである。
私たちの教会では教会建設と信仰の継承ということを特に大切にしてきた。それは、日々の悔い改めによってその人の生き方が改善され、変革が与えられることでその人のクリスチャン人生が変えられ、その実情を見ている子どもたちが神のおられる人生というものに祝福を見出し、自分も神の御手の中で生きたいと信仰を抱くことをもって、その「実」が成るとしたものである。そして、現在はさらにその先を目指し、家庭という枠に収まらず、周りに向けて証をし、「実」が成ったことを知った人がその「実」を見て自分もそのようになりたいとする「福音」につながるようにしていこうとしているのである。私たちは今まで伝道の働きをしてこなかったわけではない。ただ、主に教会内に目を留めてきた。そこから新しい教会が与えられることを信じ、祈り続け、実際に与えられて、その活動も始まった。それは一面大変なことも多く出てきている。それでも、私たちは歩みを止めない。なぜなら私たちは今まで目を留めていなかった部分にも目を留めることで、神が与えようとしてくださっている祝福を感謝と共に味わいたいのである。なお共に取り組み続けていきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)