同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— キリストの香り —


「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。」(コリントⅡ 2:15)

 最近人気の松下洸平という俳優、歌手、シンガーソングライターがいます。
母親が画家で、実家は画材屋、本人も油絵を描き、美術系の学校に入ったが、やめて歌手になるため音楽学校に転進したという経歴の持ち主であるため、絵も描ける異色のタレントです。
 先日テレビの番組に出演し、はじめて俳優の役をもらった時、パン屋の息子役だったとのこと、演出家に「パンの香いがするように演技してくれ」と注文をつけられたと言っていました。どうしたらいいのか悩まされたようです。それが役者の苦労のしどころでしょう。本人は画材屋で育ったので、子供のときは画材の匂いがしていたかもしれませんが。
 それを聞いていて「キリストの香り」を思い浮かべました。役者はそのように演技ができさえすればよいのですが、私たちは本当に「キリストの香り」がすることを求められています。何が香るのかといいますと、それは「品性」が香るのです。
  私たちの教会で、聖別会のテキストに「イエスの品性」を読んでいますが、先日は「イエスの喜び」という章でした。
「不機嫌」と「喜び」は一緒になりません。ですからもし私たちが「不機嫌」であったら、「イエスの喜び」の品性は私たちの内にありません。
「憂鬱」と「喜び」も一緒になりません。ですからもし私たちが「憂鬱」に捕らえられて日を過ごしたら、それも「イエスの喜び」の品性とは遠くなります。
 世の中は、私たちを「不機嫌」にさせるものごと、「憂鬱」にさせるものごとに満ちています。その中にあって、「イエスの喜び」を保ち続けることが、イエスに似たものとなることです。
 「悩み」と「憂鬱」は違います。イエス・キリストはなんと大変な「悩み」を通られたことでしょう。十字架の死を前にした最後の晩餐の席で弟子たちが、誰が一番偉いか言い争っている姿を見、イスカリオテのユダを去らせなければならなかったのが、イエスの現実でした。その中にあってなお、彼は喜びの人でありつづけたのでした。
  私たちも「軽い艱難に」ヨナのように「不機嫌になるのは当然です」(ヨナ書4:9)といわないようにしましょう。そして、「キリストのかぐわしいかおり」が香るひとにしていただきましょう。イエスの品性のひとつひとつが、私たちから香り、私たちの周囲にいるひとたちがイエス・キリストを見ることができますように。
私たちがイエスに似たものとなることは、正統的なキリスト教のすべての教派が掲げているキリスト者の目標です。