同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 力の漏れをどう防ぐのですか —


 今回のタイトルに、サムエル・ブレングル著「聖潔のしおり」第九章のタイトルを借りてきました。
まずそのはじめの部分を少し引用しましょう。
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 神の人であり、愛の救霊者として著名であったジェームス・コーエーがある時、夕飯に招かれ、あれこれ話をしたあと、夜の集会でご用をしたそうですが、その夜に限って、何故か弦の緩んだ弓のように力が抜けて、全然人の魂に届くことができないで終わったという。あとで静かに考えてみたら、食卓での世間話などをするうちに霊の力が抜けてしまったに違いないということを何かに書いていました。
 救世軍のある士官が集会を導きながら、まるで枯骨のように自分の無力を痛感したというのです。なぜだろうかと考えてみると、その日、その集会に出席する同僚たちと三マイルほどの道をドライブし、集会とは何の関係もないことを話し合いながら過ごしてしまったということです。そのことは別にまずいことではありませんが、それでも彼の心が集会に備えて神と魂と向き合うべきはずなのに、それをしなかったために、まるで力のない人として講壇に立つはめになったのでした。祈りの言葉も、聖書の解き明かしも、聞いたところでは申し分なかったのですが、ただその中に魂に迫る力がない、会衆は平然と聞き入り、罪を示されることもなく、時間が来て終わったという感じでした。
 この士官は経験を積んだ方で、もちろん落後者ではありません。むしろ聡明で広い教養を身につけた人でした。問題は彼が車中で静かに神と交わり、信仰と希望と愛を内に満たし、神に期待して心に燃えるものを宿すことを怠ったことにあります。
(飯塚俊雄訳、救世軍本営2017 p.63-64)
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これを読んで私は故山本光明牧師を思うのです。師は、土曜日午後からあとは、日曜日の礼拝の説教のために集中していて、家人も近寄れないほどであったと聞いています。礼拝説教が終わると、もとのひとにもどります。
 これは説教者の側ですが、同じ説教を聞いても、あるひとは恵みを受け、あるひとはそれを受けないで帰ります。
山本光明先生の奥様の和子婦人伝道師はこう言っていました。「日曜日の朝はテレビなんてつけないのよ。」
私たち夫婦もそれに倣って日曜日の朝は、テレビをつけず、新聞も読まないで過ごしました。
家内はなくなりましたが、ひとりになった今もそうしています。その代わり集会が終わったあとくつろげばいいだけです。
集会の時静かに座っていて集会が終わるとはしゃぎ回る子どもたちと同じことでしょう。
 皆さん、恵みを受けることに意欲を燃やすものでありましょう。