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ショートコラムねだ

— ヘロデ —


 聖書を読んでいるとき、ヘロデとかヘロデ王とかという名前がでてきて、あれ、この人はどういう人物?と思うことがありませんか。筆者の教会の聖書研究会で、ヘロデの系譜を説明してくれた兄弟がいましたが、なかなか覚えるには至りません。それでもう一度資料を覗いてみました。
 イエスが世におられた頃の、イスラエルを中心とした世界に関する歴史資料は、たくさんあるようで、調べだすときりがありませんから、大まかに捉えるということにします。
 ご存じのように、ヘロデ王家はエドム人(混血でイドマヤ人という)ですが、なんでエドム人がイスラエルの王になったのか、根本原因はイスラエルの側がエドムを征服し、エドム人はユダヤ教に改宗してイスラエルと一体になってしまったことにあったようです。

 イエスの生まれた時のヘロデは、ヘロデ大王と呼ばれる人物で、その父がうまく立ち回り、婚姻関係を利用したり、ローマ皇帝にうまく取り入って、パレスチナのユダヤ、ガリラヤ、ペレアなどの支配権を獲得し、それをヘロデ大王が確立した、というところでしょう。
最初に建設された神殿はソロモンの神殿、エズラ記にその建設が書かれている神殿はゼルバベルの神殿と呼ばれていますが、それは破壊されてなくなり、イエスがおられたときに在った神殿は、このヘロデが再建したものでヘロデの神殿と呼ばれています。経緯はともかく、イエスはそれを父の家と言われました。
ヘロデ大王には、公式の妻が5人いました。息子は、聖書に名が書かれているアケラオ、アンテパス、ピリポの他に4人知られています。アグリッパ(1世)は孫、アグリッパ(2世)はひ孫です。ただしアンテパスは聖書外の資料によるもので、聖書にはヘロデとしか書かれていません。

 聖書に登場するこのひとは誰か、みていきましょう。聖書を読むとき、理解する助けになると思います。

(1)「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」(マタイ 2:1-2)
 このヘロデはヘロデ大王(BC37-BC4)です。イエスの生誕の年を紀元元年としようとしたのですが、違ってしまったことが分かったのは、このヘロデ大王のいたときイエスがお生まれになったからです。

(2)「ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが、夢でエジプトにいるヨセフに現れて、言った。立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちをつけねらっていた人たちは死にました。」そこで、彼は立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に入った。しかし、アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行ってとどまることを恐れた。そして、夢で戒めを受けたので、ガリラヤ地方に立ちのいた。そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる」と言われた事が成就するためであった。」(マタイ 2:19-23)
 ヘロデ大王のあと、ユダヤを治めたのはアケラオ(在位BC4-AD6)です。エドム、サマリヤも彼の領地でした。 アケラオの後、ユダヤはローマの直轄になりました。それで総督が任命されたのです。

(3)「そのころ、国主ヘロデは、イエスのうわさを聞いて、侍従たちに言った。「あれはバプテスマのヨハネだ。ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が彼のうちに働いているのだ。」実は、このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕らえて縛り、牢に入れたのであった。それは、ヨハネが彼に、「あなたが彼女をめとるのは不法です」と言い張ったからである。ヘロデはヨハネを殺したかったが、群衆を恐れた。というのは、彼らはヨハネを預言者と認めていたからである。たまたまヘロデの誕生祝いがあって、ヘロデヤの娘がみなの前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせた。それで、彼は、その娘に、願う物は何でも必ず上げると、誓って堅い約束をした。ところが、娘は母親にそそのかされて、こう言った。「今ここに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい。」王は心を痛めたが、自分の誓いもあり、また列席の人々の手前もあって、与えるように命令した。彼は人をやって、牢の中でヨハネの首をはねさせた。そして、その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。(マタイ 14:1-11)
 このヘロデはアンテパス(在位BC4-AD39 )で、領地が違うのでアケラオと治世が重なります。兄弟ピリポの妻であったヘロデヤを横取りした、というよりヘロデヤが積極的にアンテパスの妻になりたかったようです。ヘロデヤはアグリッパ1世の姉妹、ヘロデ大王の孫娘で、つまりアンテパスは姪と結婚したことになります。踊りを踊った少女はサロメ、ピリポとヘロデヤの娘です。
サロメという名は聖書に書かれていませんが、ヨセフスのユダヤ古代誌にその名が登場し、両親の名が新約聖書の記事と一致するのでそう思われているとのことです。

(4)「ピラトは祭司長たちや群衆に「この人には何の罪も見つからない」と言った。しかし彼らはあくまで言い張って、「この人は、ガリラヤからここまで、ユダヤ全土で教えながら、この民を扇動しているのです」と言った。それを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ねて、ヘロデの支配下にあるとわかると、イエスをヘロデのところに送った。ヘロデもそのころエルサレムにいたからである。ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ。ずっと前からイエスのことを聞いていたので、イエスに会いたいと思っていたし、イエスの行う何かの奇蹟を見たいと考えていたからである。それで、いろいろと質問したが、イエスは彼に何もお答えにならなかった。祭司長たちと律法学者たちは立って、イエスを激しく訴えていた。ヘロデは、自分の兵士たちといっしょにイエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はでな衣を着せて、ピラトに送り返した。この日、ヘロデとピラトは仲よくなった。それまでは互いに敵対していたのである。」(ルカ 23:4-12)
 このイエスの裁判に関わったのもアンテパスです。

(5)「そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロをも捕らえにかかった。それは、種なしパンの祝いの時期であった。ヘロデはペテロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。それは、過越の祭りの後に、民の前に引き出す考えであったからである。
・・・さて、朝になると、ペテロはどうなったのかと、兵士たちの間に大騒ぎが起こった。 ヘロデは彼を捜したが見つけることができないので、番兵たちを取り調べ、彼らを処刑するように命じ、そして、ユダヤからカイザリヤに下って行って、そこに滞在した。さて、ヘロデはツロとシドンの人々に対して強い敵意を抱いていた。そこで彼らはみなでそろって彼をたずね、王の侍従ブラストに取り入って和解を求めた。その地方は王の国から食糧を得ていたからである。定められた日に、ヘロデは王服を着けて、王座に着き、彼らに向かって演説を始めた。そこで民衆は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた。」 (使徒 12:1-23)
 このヘロデはアグリッパ1世(在位 AD34-44)です。

(6)「(総督ペリクスは)そして百人隊長に、パウロを監禁するように命じたが、ある程度の自由を与え、友人たちが世話をすることを許した。 数日後、ペリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞いた。しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ペリクスは恐れを感じ、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう」と言った。 それとともに、彼はパウロから金をもらいたい下心があったので、幾度もパウロを呼び出して話し合った。 二年たって後、ポルキオ・フェストがペリクスの後任になったが、ペリクスはユダヤ人に恩を売ろうとして、パウロを牢につないだままにしておいた。」(使徒24:23-27)
 ペリクスの妻ドルシラは、アグリッパ1世の末娘です。シリアの小国の王の妻でしたがペリクスが横取りしたのです。

(7)「数日たってから、アグリッパ王とベルニケが、フェストに敬意を表するためにカイザリヤに来た。ふたりがそこに長く滞在していたので、フェストはパウロの一件を王に持ち出してこう言った。「ペリクスが囚人として残して行ったひとりの男がおります。 私がエルサレムに行ったとき、祭司たちとユダヤ人の長老たちとが、その男のことを私に訴え出て、罪に定めるように要求しました。そのとき私は、『被告が、彼を訴えた者の面前で訴えに対して弁明する機会を与えられないで、そのまま引き渡されるということはローマの慣例ではない』と答えておきました。
・・・
アグリッパ王。あなたは預言者を信じておられますか。もちろん信じておられると思います。」するとアグリッパはパウロに、「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」と言った。パウロはこう答えた。「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」ここで王と総督とベルニケ、および同席の人々が立ち上がった。彼らは退場してから、互いに話し合って言った。「あの人は、死や投獄に相当することは何もしていない。」またアグリッパはフェストに、「この人は、もしカイザルに上訴しなかったら、釈放されたであろうに」と言った。」 (使徒 25:13-26:32)
 この王はアグリッパ2世(在位AD44-93)で、アグリッパ1世の息子です。
べルニケはアグリッパ2世の姉妹で、ドルシラの姉にあたります。
ベルニケははじめローマの官僚と結婚しましたが死別、次に伯父と結婚しましたがまた死別、次いで兄アグリッパ2世と同棲していたと疑われています。その後キリキヤの王と結婚しましたが、エルサレムが滅亡したユダヤ戦争が起き、そのときのローマ軍の司令官ティトスの愛人になりました。ティトスはベルニケに彼女を妻にする約束をしましたが、ローマ皇帝になることになったとき、皇帝がユダヤ人を妻とすることにローマ市民が反対し、ティトスはそれを受け入れてベルニケと結婚しなかったそうです。
 パウロがアグリッパ王と一緒に出会ったベルニケはそんな人物でした。
ヘロデ家の女たちは、きっと美しかったのでしょう。