同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— キリストとともに死ぬ —


「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ 2:20)

 「キリストとともに死にキリストとともに生きる」ことには、ルーテル派の信仰に立つ人々も、カルビン派の信仰に立つひとも誰も反対しません。それは聖書に何度も書かれているからです。

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」 (ローマ 6:6-8)
「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」(コロサイ 2:12)
 「確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。」(コリントⅡ 13:4)
「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・」(エペソ 2:5)
「もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、・・」(コロサイ 2:20)

 私の信じている「きよめ」、「聖化」、「聖潔」は、間違いを防ぐために「全き聖化」と「全き」ということばをつけたりしますが、「キリストとともに死にキリストとともに生きる」ことと同じです。ですから「全き聖化」という言葉に、「ことばは違うが同じ事を信じているよ」と言われればよいのです。

 それを受けるとき、まず「自分が死んで」すなわち「十字架につけられて」、次にキリストとともに生きることが「聖霊の満たし」によって実現します。
自分に死ぬということは、神に自分を献げること、神のご意志に全く従うことです。人がなすことは「献身」ですが、神がそれを受け取ってくださったときその献身が成就します。
 神が受け取ってくさることは聖霊のお働きです。
 献身と聖化の関係は、救われるときの悔い改めと救いの恵みに与ることの関係によく似ています。

 サムエル・ブレングルはこういう意味のことを書いています。
ある婦人が、「ブレングルさんあなたは聖潔でなく、献身と言われたらよろしいのに。それなら私達は受け入れやすいのです。」と言ったので、私は、「姉妹よ。私は聖潔を説いているのであって、献身を説いているのではありません」と回答した、と。

 救われる時の例にあてはめていつまでも「悔い改め」をしつづけることを考えたら、救いを受けることに進まなければだめとわかるでしょう。同様に、いつまでも「献身」にとどまって、「聖潔」にいたらなかったら悲しむべきことなのです。
それにも関わらず多くの兄姉が、献身を果たして満足してしまっているようです。

 次に目を覚まして、聖化、聖潔を求めるひとびとが、「神よ、私はあなたのものです。献身しております。」と叫んでも「死ぬ」ということができないことに当面するようです。

 そういう人々になにかよいヒントを差しあげることができないものかと思って、ホームページに載せられている日本聖化交友会の機関誌を全部、創刊号から67号まで、広告もみな読んで見ました。
その中にチャーチ・オブ・ゴッド川崎キリスト教会の古波津先生のきよめの証し「きよめの試金石」(聖化No.51、2012.4.25 p.4-5) にこう書かれていました。
前後を省略しますが、「・・・主は私が抱えている問題点に、いえ私自身にふれてくださいました。メッセージのテキストはヨハネ12章24節でしたが、みことばを語る声はもはや本田先生ではありません。それは紛れもなく主の語りかけです。「古波津よ。おまえは自分で死のうとしているから、死ねないのだよ。わたしもおまえと一緒に死んでいるではないか。・・」
元気溌剌な本田先生とは全く好対照なほど静かな細き主の御声でした。・・・ 」
 ヒントは、はじめから「キリストとともに死ぬ」というみことばに立っているのにその「ともに」になっていないところにあります。ともに死んでくださるキリストに信頼するのです

 まず聖化の恵みを求めなければなりません。今はもう天に召された方ですが、釣稔先生という方が、私たちの教会で礼拝説教の御用をして下さったことがあります。そのときはインマヌエル札幌教会の牧師をしておられました。最後は山形教会で御用をされ、いまは奥様がその後の牧会をしておられます。釣先生のご自分のあかしはこうでした。
「私は寝ても覚めてとにかく一年間、毎日、一日中「神様、どうか私をきよめてください。」と、神を見上げ続けました。」と。そのときは、きよめに与る道を見いだしておられなかったようですが、もっとも大切なこと、執拗に神に求めることをされていました。古波津先生の場合と同様、きっと神がその道を教えて下さっただろうと思っています。

「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ 11:13)