同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 世に関する神のご計画について (5) —

「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル 9:11-12)

4.限定的贖罪に関して
 イエス・キリストの贖罪は全ての人にたいするものか、救いに選ばれた人だけにたいするものか。

 極端なカルヴィン派では、イエス・キリストの贖罪は、命に予定された人々だけのためであるとします。それを「限定的贖罪」といいます。
 もしもすべての人のための贖罪であったなら、命に選ばれる人々と滅びに選ばれる人々がいる理由づけに「キリストを信じる」という条件が入ってきて、無条件の選びの命題が破綻するからです。
 極端なカルヴィン派の教理は全体がむすびついていて、この項目だけでなくどれか1項目でも捨てると全部が崩壊してしまいます。
 キリストが滅びに予定された人々のためにも贖罪をされたのならどうしてその人々は贖罪に与らないのでしょうか。
ウェストミンスター信仰告白には、
「第8章 仲保者キリストについて、
8 項:キリストがあがないを買い取られたすべての人々(命に予定された人々)に対して、彼はそれ(贖い)を確実有効に適用し、伝達される。それは、彼らのために執成しをし、救いの奥義をみ言葉において、み言葉によって、彼らに啓示し、みたまによって信じ従うように有効に彼らを説得し、み言葉とみたまによって彼らの心を治め、彼の不思議な、きわめがたい配剤に最もよく調和する方途で、彼の全能の力と知恵により、彼らのすべての敵を征服することによってである。」とされています。
もしこの文が、アルミニウス派の主張するように、キリストの贖いは「全ての人々」に対するものであり、イエス・キリストを信じるすべての人がその恵みに与るのであったら、問題なかったでしょう。
 しかし、「第10章 有効召命について4項:選ばれていない他の者たちは、たとえみ言葉の宣教で召され、みたまの一般的な活動に浴しようとも、決して真実にはキリストにこないし、それゆえ救われることができない。とりわけ、キリスト教を告白しない人々は、たとえどれほど彼らが自然の光と自ら告白するその宗教の律法に従って、自分の生活を築きあげることに勤勉であるとしても、これ以外のどのような方法でも、救われることはできない。また彼らが救われると断言し主張することは、きわめて有害で憎むべきことである。」
として、命に予定されていない人々を救いから排除しています。

 「滅びへの予定」は神をなんと恐ろしい方としていることでしょう。ことばとしては、「第3章 聖定の7項、人類の残りの者は、神が、み心のままにあわれみを広げも控えもなさるご自身のみ旨のはかり知れない計画に従い、その被造物に対する主権的み力の栄光のために、見過ごし、神の栄光ある正義を賛美させるために、彼らを恥辱とその罪に対する怒りとに定めることをよしとされた。」ですが、滅びに予定された人は自分の意志で生まれたのではなく、神の聖定によって生まれ、神が聖定されたとおりのことを行うのです。そしてキリストの贖罪にあずかる機会は与えられず永遠に火で焼かれ続けるのです。
モロクに捧げられたこどもたちは、死ぬまでの一瞬火で焼かれますが、このひとびとは「永遠に」火で焼かれ続けます。
モロクについて神は「わたしが考えもしなかったこと」だと仰っています。

「3.無条件の選びに関して」のところでも引用したみことば、
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(テモテⅠ 2:4)
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ 3:16)
について、カルヴィン自身がこの「すべての人が救われる」ことを神が望んでおられることを、「すべての<種類の>人が」と聖書にないことば<種類の>を追加して読むことによってその意味をすりかえ、救いに予定されたひとだけのための贖罪の教理を擁護しました。

しかし、ヘンリー・シーセンはこう解説しています。 「その晩年になって、カルヴィンは無制限の贖罪説を受け入れた。 そうでないとすると、たとえば以下に引用するような、かれのヨハネの手紙Ⅰ 2:2 に対する注解を、どのように説明したらよいのであろうか。  ・・・キリストは全世界の罪に代わって苦しまれ、神のめぐみによって、すべての人々に何の差別もなしに差し出されている。かれの血は、この世の一部だけのために流されたのではなく、全人類のためである。なぜなら、この世には神の恵みを受ける価のあるものは、何もないにもかかわらず、キリストは全世界のために贖いの供え物を提供し、そして、一人の例外もなしにすべての人を、唯一の希望の門戸であるキリストに対する信仰へと、招きよせておられるからである。」
(ヘンリー・シーセン「組織神学」、聖書図書刊行会、1964,p.568)
 極端なカルヴィン派でなく穏やかなカルヴィン派であるためには、主張を変えたカルヴィンとは違って、「限定的贖罪」を信じながら、「全ての人のための贖罪」を同時に信じることになるでしょう。