同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— アブラハムの見たもの —


「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」(ヨハネ 8:56)

 イエス・キリストはパリサイ派の人々との問答で冒頭に掲げたみことばを言われました。彼は「わたし(イエス・キリスト)の日」を見たとは、一体何を見たのでしょう。そしてそれをいつ見たのでしょう。
 アブラハムの生涯を概観して、あてはまるのはモリヤの山でイサクを献げたとき以外にはありません。
 その時が来る以前にアブラハムが見ていたものがありました。それは「天の都」であり、やがて自分もそこにいくことでした。地上の生活は一時のこと、地上は他国であって、自分はそこに寄留しているに過ぎないことを知っていました。
「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」(ヘブル 11:8-10)
 彼はカナンの地を相続することを約束されていましたが、彼の子孫が天の都にいたる過程に過ぎないことを知っていました。
 そして、モリヤの山でイサクを献げた直後に、彼にはイサクは御子イエスの型であって、御子による神の「大いなる救い」がなされることが分かったのでした。
「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。
神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言われたのですが、 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」(ヘブル 11:17-19)
 アブラハムの見たもの、 ひとつはイエス・キリストの贖罪の死です。もう一つはイエス・キリストの復活です。
彼が本当にイサクに手を下そうとした時、神はイサクを復活させて約束を果たされると信じていました。そして更に神が御子にそれを実行され、イエスの死と復活が実現する日がくると分かったのです。「主の山の上には備えがある」とはそのことです。
自分の子を献げる心を神と共にしたので、「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、・・・彼は神の友と呼ばれたのです。」(ヤコブ 2:21,23)
 彼は「神の理解者」となりました。
アブラハムは私たちの「信仰の父」です。私たちも彼に倣って地上を「寄留者」として生活し、「神の理解者」となり、「神の友と呼ばれる者」でありたいものです。