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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-139  —

山本 咲


列王記Ⅰ 9章

   引き続き、ソロモンの功績が記されている。神殿と宮殿の建設を終えたとき、以前ギブオンでソロモンが王位について生贄をささげた際に現れてくださったように、もう一度夢の中に神が表れてくださった。以前神は夢の中でソロモンに問いかけ、その願いを聞かれた。彼の願いは善悪を判断して神の民を裁く知恵であり、これが御心にかなったため、与えられたのだ。そして今回再び神は表れソロモンに対し、力や知恵を得ることによって権力をふるう傲慢に気を付けていかなければならないと念を押されている。それは、力を得ることと、神を畏れて生きるという二つのことの間の中で、揺れ動いてしまうのではなく、神を第一に歩んで正しく生きるようにするためである。ソロモンを王とし、民は神から離れずに生きることが求められたのだ。列王記の記者たちは、その所を見極めながらこの出来事を書き記した。私たちはすでにこの先にソロモンがどのようになっていくかを知っている。ではここから何を読み取るべきだろうか。神はソロモンの地位が確立したこの時だからこそ、よくよく注意するべきであると語っている。そしてその神からの言葉の最初は何かというと「ダビデのように・・・」であった。ではダビデとは全く罪のない人であっただろうか。いや違う。彼は、多く罪を犯してきた。ならば、なぜそのように神が語られたのだろうか。それは、彼が罪の指摘を受けたとき、神から離れてしまうのではなく、その都度遜って悔い改め、いつも神の赦しを求めながら神とともにあったからである。彼のその姿勢こそ、人格的な神との交わりの中で大切なことであったのだ。だからこそ、ここでソロモンに対し神は彼の父ダビデの姿勢を示した。「全き心と正しさをもって」とダビデの姿が描かれているが、私たちもそれを見るときに信仰者としてどのようにあるべきなのかということを考えさせられる。神から離れずに、罪を悔い改めつつ遜って生きることが大切なのである。それを、全うする者に対し神はダビデにされた通り、永遠の約束をしてくださるのである。しかし、一方でその神のおきてを破り、神から離れるような生き方をするならば、その約束は反故にされてしまうのである。実際、エルサレムの神殿はバビロニア帝国によって打ち壊されてしまう。それは、主を捨てて、ほかの神々に仕えるような姿が彼らの中にあったからである。
 またこのところでヒラムの王との関係が語られている。ヒラムの王は神殿の建設などに大きく尽力し、ソロモンを助けた王であった。だからこそその功績に対し、ソロモンは町々を与えた。しかし、聖書には「それは彼の気に入らなかった」と語られている。ここから聖書記者たちがソロモンのきらびやかな功績のみを記そうとしたのではなく、ある意図をもってこの出来事を取り上げたことが分かる。それはソロモンがこの時すでに、真実性や、神の民の王であることによる行動ではなく、自らの知恵を用いた行動をし始めていることが明らかにされたのである。ソロモンは自らの強さにまかせ、ヒラムへの態度を決めている。本来ならば、その尽力に対しソロモンは感謝を正しく表すべきであった。しかし、彼はそのようにせず、正しい報酬を与えることもなかったのである。
 またこののちソロモンが様々なものを建設していることが語られている。ここからソロモンが神の御心ではなく、自らの知恵や権力により頼むことに傾き始めていることを預言者たちは指摘し始めているのだ。彼は神の御心を仰ぎ、従っていくのではなく、だんだん自らの思いにとらわれ始めているような姿が示されているのだ。
 彼は権力者だった。人間の中では確かに王として一番上に立つものだった。しかし、その上には神がおられる。にもかかわらず、権力者が私利私欲に思いを変えてしまい、正しい神の民の王としての姿を変えてしまったのだ。権力者が自らの権力によって狂わされない方法はただ一つ、常に自らの上に神を置き、畏れとともに歩むことである。そのことはこの先に示されている王位継承の過程の中で、強く打ち出されている。
 私たちは王ではないが、自分よりも地位が上の者がいないような状況で自分のわがままを通すのは、このような王の姿と同じである。例えば家庭においても同じことがいえる。家長が一番に自分の好き勝手なことをしているようではいけない。ましてや、それによって弱いものが我慢を強いられたり、蔑ろにされたりしてはいけない。それでは家庭が崩壊してしまうのだ。畏れをもって神の約束を握りしめながら、謙遜に歩むことが大切なのである。
 私たちもいつしか崩壊をもって終わってしまわないように、なお畏れながら歩まさせていただきたく願う。


Q:最近あった仕事での出来事なのですが、私の働いている施設にとてもしっかりとした面倒見のいい利用者さんがいて、帰りの時間に私がほかの方に荷物を配っていた時に「バックをもらっていくよ」と言われました。私はその時にその方が面倒見のいい方だという印象があったので、きっとほかの方の荷物を配って手伝おうとしているのだと思い込み、転倒を恐れて、「大丈夫です。私がやりますから」と強引にその人の願いを断ってしまいました。しかし、実際は用事があって早く帰りたくて荷物をもらおうとしていたことを後から知りました。そして、強引な自分の態度に反省しました。私は相手の話を受け止めるのではなく、先入観で勘違いをして強引な態度をとってしまったと感じ、先入観に気を付けていかなければならないと思いました。以前「信仰者の姿が神の栄光を表す」と語られたので、私はそのような自分の心の中にある根を直していきたいと願っているのですが、どのようにすればよろしいでしょうか。

A:もう少し、詳しくあなたのお話を聞く必要性はあると思う。今聞いた中では私にはミステイクにしかとらえられない。しかし、第三者がそれをミステイクですよという判定を下すことで良しとするのか、それとも、そのような自分を問題ととらえて変えて、福音を示せるように生きたいと願うのかあなたがどのようにしたいのかをもう少し深く追求していきたい。  もしあなたが、変えていきたいと願うならば、このような経験をなお心に蓄えていくことが必要である。その考えたこと、感じたことを持ち続けながら、働きの中でその人や、周りの人とかかわっていくことが大切。また、その意識している中で何が変わったのか、自分だけでなく、どのように周りに影響が与えられたのかも見ていくとよい。あなたが確かに神の御心を願い、真実に歩むならば、そのあなたの働きの中に神が必ず変化という良き景色を与えてくださる。それは今日のところでソロモンに神から与えられた知恵のことと同じである。
 私たちは神から与えられた賜物の扱いをどのようにしていくべきかをよく考えていかなければならない。また同時に神から聖言を通し与えられた日々を豊かにするための知恵や生き方を私利私欲のまま自らを肥やすために用いてはならないのだ。
 先日恒励会の旅行会で斎藤茂吉という人の記念館に行ってきた。終始何が語られていたかというと、彼は歌人であり、画家であり、精神科医であった。彼は14歳の時に東京の青山の斎藤という人のところに養子に出された。彼を見出したのは部落のお寺のお坊さんだったらしい。その時代を考えれば、ただまじめだったということだけでなく、素養、特出したものがあったのだろう。そのうえ彼自身の努力もあって、その力を発揮していくことになる。ソロモンも素養はあった。ただ、それは神から与えられたものであり、それをどのように用いるか、彼自身の努力が求められていたのだ。しかし彼はそれをはきちがえてしまった。同じように私たちもいつの間にか、神を見失ってしまうことに注意を払っていかなければならない。まるで自分の力だけですべてをやり切っているように思い違いをしてはならないのだ。また同時に私たちが神に最終的に結びつけることは大切であるが、それには人の具体的な行いが伴う必要がある。いわゆる信仰者の努力の必要な部分である。神が与えられるからと手をこまねいているようではならないし、棚から牡丹餅のように起こってきた出来事を「神が祝福してくださった」とまるでご利益宗教のように怠惰でいてはいけない。私たち自身が信仰をもって取り組んでいくべき部分も当然必要なのである。
 それによって私たちは本当の意味で整えられた信仰者となることができる。実際に自分の言葉や態度が変わっていくこと、そのすべてが、信仰によって行われることにこそ意味があるのである。それは何につながるか、本当の意味で神から与えられたものと結びつけられるのである。ただ、起こってきたことを神に結びつけたのではない、私たちの信仰による努力があって与えられた神からの祝福となる。そのような心は私たちのおごり、高ぶらない人格を養っていく大切なものになる。なぜなら、神からの祝福として与えられたものときちんと捉えているからである。ただ自分のものでもなければ、単純に与えられたと感じているものでもない。信仰によって得たものであるからこそ、神への感謝にあふれるものとなるのだ。
 その先で幸いな老後、年齢が重ねられた中にある最後を迎えられるだろう。人がそばに寄って来るような人になる。それは神が約束された通り、永遠という意味であなたの息子の家庭に信仰が続くことで残るのである。  年を重ねるとどうしても人はその根の部分、いわゆる本性が顔を出してくるようになる。究極は「この年齢になって、わがままやって何が悪いの」という人間の愚かしさ、醜さが出てしまうのだ。それを回避していくために信仰をもっていく必要がある。そのような心根を神との関係の中で大切に持つためにも、なお聖言を心に信仰を土台として日々を歩んでいただきたく願う。


Q:あたかも物が解ったようにことを動かしていくと崩壊してしまう。ということが語られていましたが、自分が解ったようにして進めていこうとして、危ないところで止めていただいたという経験をしました。自分が語っていたことがいかに言い訳であったか、神の御心からずれていたかということを感じたことがありました。ズレを感じたときにどのようにすべきでしょうか。

A:そのように気が付かされたとき、自分の愚かしい、恥ずかしいところに直面した際、どのように対処していくかが重要である。そういう時にこそ、その人の心根が分かるのだ。なぜならその行動は「何を恐れているか」ということによって左右されるからである。神を畏れるのか、それとも人を恐れるかということによってその行動は全く異なるものになる。
 神を畏れるならば、自分の愚かしさを前に真実に明らかにしていくことが必要である。しかし、人を恐れ、隠してしまうならば、私たちは本来払うべき対価を払わないことになる。それは人間からの誉れに生きているからである。しかしそれを神は嫌われる。なぜなら、その姿は真実ではないし、払うべき対価、つまりは贖罪がなされないからである。だからこそ神はそれを指摘される。そうでなければ私たちと神との関係が円滑になされないからだ。それはひとえに神の愛によるものである。神が私たちとの関係を切らずに、なお繋がっていようとされるからこそ、私たちに対価を求められるのだ。しかし人はその事実を神は赦される方だと理由をつけて悔い改めを有耶無耶にしてしまう。自らがその負うべき対価を払いたくないという思いからくる行為だが、それは神を蔑ろにしていることである。神の愛に対し、真実ではないその行動はいかに自分中心で神を畏れない行為だろうか。
だからこそ、私たちが気づいたとき、気づかせていただいたときにどのように行動していくかということが重要になってくるのである。イエス・キリストは愛する父から否定され、十字架に上がられた。その恥を、困難を乗り越えられたのである。私たちのために対価を払う必要がない方が、その対価を払われたのだ。しかし、それは神と、イエス・キリストの救いに出会う前の私たちの罪に対してである。信じた後に犯した私たちの対価はどのように払っていくのだろうか、そのたびに再びキリストを十字架にかけるのだろうか。そうではあるが、そうではない。私たち自身が自らを十字架にかけていく必要がある。悔い改めをもって、自らの恥をさらし、その苦しみを味わいながらも、再び信仰によって立ち上がっていくことが必要なのである。苦しみは自らを戒めることにもつながる。罪を繰り返すことは愚かである。確かに人間は弱い。その事実はあるが、信仰の成長によってその弱さを乗り越えていくことを神は願っておられるのだ。よりきよめられた信仰者へと、なお成長させていただきたく願う。


Q:証しについての質問なのですが、先日いくつかの集会で証しをする機会が与えられました。その際に、場にふさわしい証しの内容、トピックスの選び方ということに悩みました。どのようにするべきなのでしょうか。

A:霊的な意味においては祈り、待ち望みながら導かれたことを語るべきである。これは私たちにとって聖域として扱っている部分である。祈りや、証しした内容は聖霊が語らせたものと扱うからこそ、それ自体を否定するということを控えるのだ。また私はその人の信仰告白であると考えている。その人の姿勢が表れるからこそ、おそれ、備えをするべきことであると考える。だからこそ祈りながら思いめぐらすということがあるのだ。ただ一方で、紙に書いて言葉遣いや、言い回し、内容について考えることもある。それはその人がどのように行っていくかという問題であり、こうすべきというものではない。それは神とその人の関係の中で行われることであり、怠惰にも備えを怠るなら、そのことは明らかになる。だからと言って備えすぎてまるで自分の力のみで行ったかのようになってもよくないだろう。確かに聖霊の働かれる部分を残していくことも必要になってくる。それは神との関係の中で豊かに行われていくことが大切だろう。そのような中で霊的に働かれ、語られたことは周りにも大きな感化を与えていく。それは通りよき管として神があなたを用いられたということなのだ。時にはどうでしたかと聞くこともあっていいし、それによる反響をうかがうこともいいだろう。本来はその中にどれだけの備えを行っていくかが必要なのだ。ただ、周りの反応をうかがい、逆におそれすぎて証に立てないというようなのでもいけない。また、周りから評価されること、自分の信仰を誇示するために表すようなものではいけない。ただ、神の栄光を表すためにも、証しすることに価値を置き続けていかなければならない。その中で何が重要なのかと語ることが必要なのである。同じことを何回も証しているということをあなたが心配しているのならそれは問題ない。それによってあなたの感謝がより伝わるのである。もちろん全く同じものを使いまわしているような怠惰なものであるのならば変えていかなければならないが、そうではなく、あなたの中にいつもその感謝の心があるのなら、それは証すべきである。
 そしてそのようなことを家庭の中でおこなっていくのが必要なのだ。普段は忙しさとあわただしさの中に生きている伴侶者との日々であっても、聖域にあたる話をするならば、切り替えていかなければならない。大切な話をするという時にチャンネルを切り替えるように、互いの対応も真剣なものへと切り替えていかなければならない。どうでもいい話や、あわただしい中で行われる話だけでなく、きちんと整えて労を払って会話をすることが家庭において、夫婦において重要である。


Q:先々週のメッセージの中で神の見せてくださる景色に感銘を受けるということが語られていましたが、私の日々の中で、そのことを動機としていくときに感謝を覚えています。仕事や、教会の働きの後押しになっています。

A:聖書研究会の時にあなたは「ある問題にぶつかった際に、信仰によって従って歩んだ時、物事が動き感謝を覚えた」ということを語ったが、それに対して司会をしていた兄弟は「私も同じ経験がある」と感想を口にしていた。表現の仕方としては違うが、その感覚こそが神の景色を互いに観たということなのだ。今まで何が行われているのかわからない中にいたが、信じたときに神がその御心を見せてくださり、感謝を覚える。私たちの信仰が確信に変わる出来事こそが、神の御業による景色なのだ。しかし、これを見るためには何によって私たちがものを進めているかということが重要になる。神の秩序にマッチして生きている人はたまたまその景色に出会うことがある。ラッキーと人が感じる部分であり、それが自分の力や知恵や価値高いものになるのだ。しかし、一方でそれが失われたとき、誰かに取られそうになったとき、それを馬鹿にされたときに、怒りや、不安を覚え、満たされていた時から一転してしまう。しかし、私たちは神の秩序に生きるということを動機とし、神とともに生きることが芯にあるため、与えられたときはもちろん、それが手から離れようとも、むしろ人からは不幸に見えるような出来事にも感謝と恵みをもって臨むことができるのだ。そして、そのような状態だからこそ、持てるものを譲ることもできる。なぜなら、私たち自身が神から受けたものだからである。自分の力で得たものではなく、神の恵みと哀れみによるものと考えるからこそ、同じようにそれを必要としている者に分け与えられるのである。また、たとえそれが分け与えるのではなく、一方的にとられる時があろうとも、この世で起こることに神がかかわられていないことはないと信じるからこそ、神がこの出来事をも許されたのだろうと、信じ、その苦しみや困難を受け入れることができるのである。そして、神はそのような信仰者の前に必ず、違う形をもって祝福を与えられる。なぜなら、神は愛と恵みにあふれる方であり、ご自分の民を見捨ててはおれない方であるからだ。


Q:先日の説教の中で犠牲と生贄という言葉が使い分けられていましたが、どのような意図が込められていたのか、もう一度詳しく教えていただきたいのですが。

A:イエス・キリストがご自身をささげられたという意味合いの犠牲(いけにえ)と自分がしたいことをするために周りを生贄(ぎせい)としているということを語った。読みとしては二つとも「ぎせい」とした。しかし、意味は正反対である。自らを人のためにささげるか、それとも、人を自らのためにささげるかである。福音書で律法学者、パリサイ人たちにイエス・キリストが示された「神とともに生きる」ということは自分を遜らせ、自分を犠牲にすることであった。誰かを犠牲にして自分が何かをしているようなものは本物ではなく、滅びや恨みを招くのである。それこそが当時の律法学者たちの姿にも現されているのである。人間は自分のわがままで神を捨てるということを行い、それこそが罪であった。私たちはやりたいこととやらなければならないことの中で生きている。ひとたび家族の中で個人個人の思いがぶつかったときどちらも意思を貫き通していては、物事はまとまらない。だからと言って片方が相手を犠牲にして、自分の思いを通すということがあってはならないのだ。
 我家は長女の仕事が変わってから、家族みんなで朝食を7時に取るようになった。私はその際に朝早く仕事に行くのをやめた。家族ともに朝、祈りから初め朝食をとるこの機会を優先することにした。家族間でそのようなことを長と呼ばれる人は考えていかなければならない。奥さんの言ってくることを聞いているだけではなく、むしろその上をいかなければならないのだ。そうではなく、まず家長が自由に自分勝手にしているようではいけない。なぜなら、それはすぐ子どもの姿に見えてくる。「お父さんがわがままやっているのに何で僕はやっちゃいけないの」というようになるのだ。だからこそ、家庭の中で長と呼ばれる者たちこそ、家族に仕え、自分の都合をわきに置いても、家族のために選択していくことが求められるのだ。それには困難や苦労が伴う。しかし、それが長く続けていられるのは先ほど語られた神の景色に感銘を受ける経験が所々であるからだ。なお取り組み続けていく必要がある。私は信仰に必要なのはスタミナだと思う。霊的スタミナをつけるためにも、なお投げ出さず、まず少しずつでも取り組んでいってほしい。
 話は変わるが、先日の野球の紅白戦で子どもたちに球を打たせてあげられなかったことをある兄弟が惜しんでいた。どうにか打たせてあげられないかと言っていたが、あれはピッチャーが打てるように投げられなかったのが問題である。ならばTバッティングのようにして球を置いて打てるようにすればよかったかというと、それは子どもたちのプライドを傷つけるものになってしまう。だからこそ、あのような時に必要なのは、子どもたちのために真剣になって打てるように働きかける親のテコ入れだ。試合を止めて、勝敗を置いても、子どもたちの楽しみを優先してあげることができれば、それは喜びとともに豊かな経験になる。今後、あなたの子どもも含め、下の子どもたちがさらに育ってきたならば、そのようなテコ入れをしてあげられるよう、なお親として考えていく必要があるだろう。取り組んでいっていただきたい。
 神が私たち一人一人の人格を導いてくださっていることを感謝し、また今月もへりくだり、神とともに歩ませていただきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)