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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-138  —

山本 咲


列王記Ⅰ 8章

神殿の建設を終え、ソロモンは王宮をそのそばに建てた。一連の出来事を終えた後、ソロモンは神殿の中に契約の箱を運び入れることを通して神の臨在を確かにし、神からの豊かな導きを得られるようにした。この契約の箱に象徴されているのは、イスラエルと神との間の契約である。神の民としてのイスラエルと、その民の神となられた主との約束をここに表しているのだ。この契約を通して、神は人間との結びつきを持ち、互いがその役目を果たすことを通して、神ご自身の存在を明らかにしようとされたのである。旧約聖書の時代は選ばれた民としてのイスラエルが神の愛の対象となっていた部分があった。だからこそ、神はその豊かな恵みをイスラエルの民を通してすべての人々に導き、間接的に世界を祝福しようとされた。そこから新約聖書の時代に入り、イエス・キリストを通してその祝福は契約の対象であるイスラエルの民だけでなく、キリストを信じるものすべてに直接的に成就されることとなったのである。それによって私たち人間は神の子どもとされる特権と、永遠の命へと入る新たなる契約を結ぶこととなったのである。
神と私たちの関係は契約によったものである。そこにはそれぞれ果たすべき責任があるのだ。この8章を読んでみると多くのことが書かれている。それは、イスラエルの民が過去どのように生きてきたのかということを、そこに結ばれてきた契約、その証である契約の箱の存在を通して示すとともに、ではこの先神とともにこれからどのように生きていくのかということを投げかけているのである。しかも、彼は民に対して語ることをもって示すのではなく祈りという形を通してこのことを行ったのだ。 また契約の箱が運び込まれる際には雲のようなものが覆っていたこと、それによって役目を担っている祭司ですら、その働きを全うできないほどにまでなっていたことが語られている。これは神ご自身がその存在を明らかにされるために行われたことであり、だからこそ契約の箱が神殿に運び込まれることで、神殿の建設が完了したのである。列王記はダビデとの約束に対して、神が応えてくださったことを記している。ソロモンがどれだけこの出来事を感謝と喜びとともに迎えたのかも列王記から読み取れるだろう。契約の箱はユダ部族とともにあった。それは、ダビデと神との間の契約を示すとともに、神が、ダビデ王家から離れずにいてくださったことの証拠である。神の民の先頭に立ち、導く王権がこの一族に役目として与えられたのだ。
神殿の建設を終え、豊かな国力をもってその奉献、献堂式が行われた。多くの捧げものがなされたことが記されている。ただここに強調されているのは神殿そのものに大きな力があるわけではないということである。もちろん契約の箱というものや神の臨在の証明としての神殿の姿はあるが、あくまで、そこに必要とされているのは神と人との交わりである。どうしても私たちは建物が建てば、その場所に意味を持たせようとする。しかし、本来必要なのは、それが示す神との関係、交わりだ。契約というとどこか過去のものになって、他人事のような気がしてしまう。しかし、それは今も続くものであること、その契約は私たちのものであることを自覚していかなければならない。そして、神が臨在される場所といっても、そこで祈りがささげられ、神との交流がなされなければ、ただの建物でしかない。神がおられるその場で神とともに、生きること、感謝することが必要なのだ。そうでなければ、神殿は偶像と化してしまう。神殿のほうに向いてお祈りすれば願いが叶うというような、祈る対象を意識しないものであってはならない。私たちは神にその対象を置いていくのであり、神殿はあくまで形でしかないのだ。ただ建てたからよいというものでもない。そこで豊かに神を意識した交流がなされなくては意味がないのだ。教会も同じである。ただそこで礼拝が行われればよいというのではなく、神が臨在されていることを意識し、自らを整え、その場に出ていくためにあるのだ。日々の生活の中でも神の存在を意識する機会はある。しかし、当時の神殿のように神とともに生き、その存在を確かめ、祈り、賛美し、感謝するとともに、これまでに神がどのようにその契約を私たちとの間で成就されてきたかということを見ることができるのは教会なのである。
イスラエルは400年後バビロンによって滅ぼされてしまう。それは、彼らに対する神の怒りであった。神はその怒りをもって神殿や契約の箱という象徴すら破壊してしまう。しかし、それによって新しい時代が訪れ、神と人との関係が新たに結ばれることとなり、イエス・キリストの十字架と復活の営みがなされる新約の時代へと入っていくのだ。目に見える形での象徴はなくなった。しかし、私たちはイエス・キリストを通した、豊かな神との交わりがなされている。聖言とともに生き、歩む時代だ。
当時のソロモンは神殿の完成とともに、その臨在を感謝し神を拝して大いに喜んだことだろう。同じように、私たちも神との約束を握りしめ、神とともに歩むときを大いに感謝しその約束の成就を信じながらこれからの日々も歩み続けていきたく願う。


Q:今日取り上げられた聖書個所のところに、ソロモンがまるで予言をするようにイスラエルが神に逆らうことや、そこから悔い改めて神に立ち返るということが語られておりましたが、ソロモンはそのようなことが起こることを考えて、このように語ったのでしょうか。

A:そのとおりである。当時から今に至るまで私たちが神との間に築いている関係は、財力や力というものに惹かれ、人間の営みが誤った方向に進んでいってしまうという傾向性が表れている。ソロモンもそれを危惧し、このような祈りの言葉を口にしたのだろう。
私たちが普通に思うように、いずれこのようなことが起こってくるということは考えられる。なぜなら、人間の営みにおいて、経済や力は必要な時があるからだ。それらが整うことによって進められていく豊かな歩みがあることも事実である。しかし、そこに価値を置くことは決して私たちを豊かにするものではない。そのゆえに自らを神から離れたところにおいてしまって私たちは貧しくなるだけなのである。人間はその豊かな自由さのゆえに、神に限りなく近づくことも、遠く離れることもできてしまう。神はそのように人間を豊かに創られた。だからこそ、神は真理として私たちとの関係を豊かに持っていてくださろうとしておられる。人間は知っていても過ちを犯してしまうものである。しかし、私たちは神との関係を豊かにしていくときにその中から解放されていくことができる。それには人間の真実性というものが大切になっていく。神の前に、人の前に真実であるとはどのようなことだろうか。自らを罪から切り離すようにしていくことや、罪を自覚したならば、それを悔い改めること、聖言をしっかりと握りしめ、その言葉に倣い自らを戒めながら生きることである。そのように生きることで私たちが神とともに歩めるようにと創造されたのである。
イスラエルは聖書という形をもって記録を残し、それぞれの立場、責任において指針になるものがそこに現れている。今の時代、日本でも憲法がその指針を決めている。そのことを通して民が営みをなしているように、神の民はこの聖書を指針として生きることが求められている。そして私たちのうちに働かれる聖霊が神とともに歩めるように私たちを霊的に導いておられるのである。
そしてそれはソロモンが神の国を治めるためにも必要であった。だからこそそれを教わることが王となるための資質であったのだ。そういう意味で政治的な正しさや、人を動かしていくカリスマ性というようなものはあったかもしれないが、あくまで彼はそのようなもので王になったのではない。予言もそういう意味で彼が特別だと表すためではなく、そのようなことはいつの時代も起こりうることを踏まえての彼の祈りだったと考えるとよいと思う。ただ彼が王として選ばれたのは、そのような人間の図れるところではない神のご意思がこのところにあったのだというべきである。
ダビデのことを考えてみると、彼に特別な教育者がいたかということは書かれていない。王政について彼は誰から学んだのだろうか。もちろん神とともに歩み、彼がその中で神に教えられてきた部分もあったとは考えられるが、そこには誰かということはないが、彼の教育者がいたのだろう。彼らは「友」という称号をもってその姿を現している。そのような人々が王を補佐し、守り、知恵をかわす相手となっていくのである。同じようにソロモンにとってもそのような存在がいたのかもしれない。
こののち、ソロモンが神を見失い、おかしくなっていってしまう時代がやってくる。これによってイスラエルも神から離れていってしまう出来事が起こってくるのである。この話は国単位であるが、これは私たちにとって家庭という単位で起こってくる。国にとっての王は家庭にとっての父親や母親である。では民とはだれか、子どもたちだ。家庭で父親や母親が自らのわがままを通そうとして、起こってくる状況を理解せずにいたなら、その環境を破壊してしまうのである。本来は神との関係を通して祝福を受け、反映していくのがクリスチャンの家庭である。それによって好循環になることができるのだ。家庭の小さいもの、弱いものを大切にして一番にしていくのなら祝福されていく。しかし、力ある立場の者がまず一番に自分のしたいことをやっているようではその家庭は崩壊していくことになるのだ。なぜなら、最終的に小さかった子どもたちが成長して、その家庭を飛び出していくことで話が終わってしまうからである。だからこそ家庭において小さきものを一番に大切にしていくことが必要である。
また、子どもたちに必要なこと、その求めにこたえることを適切なタイミングで行っていくことで子どもたちの中に残っていく。必要としていないときにいくら教えられたり、手を貸されたりしても子どもたちにとっては鬱陶しいものと変わらない。本当に今どうにかしてほしい、助けてほしいという時、またどうしたらよいのかわからないと助けを求めてくるときにそれを察知して手を貸し、教えていくことが必要なのである。それは成長していく中で彼らの中に思想を形作り、後々に何らかの形で現れる。「お父さんはこの時こうしてくれた」「私はこう思うけど、それでいいんだよね。お父さんと一緒だよね」というような子供たちの言葉の中に私はそのようなものを見させていただいていることを心から感謝している。なおあなたにも取り組んでいただきたく願う。


Q:先日の礼拝で4人の人が中風の人を釣りおろしたところを取り上げそこでイエス・キリストの語られた「床を取り上げて歩け、というのとあなたの罪は許されたというのではどちらが優しいか」という言葉から、イエス・キリストご自身が人を裁く権威があることをお示しになったというとらえ方でよろしかったでしょうか。

A:そのとおりである。礼拝の言葉としては、イエス・キリストが天の父から裁きの権威が与えられたことを取り上げたのである。裁きというと有罪、無罪ということを考えるだろう。イエス・キリストが強調したのは、赦すことができる権威を与えられたということを語ったのである。「癒すことが簡単にできるのか、それとも赦すことのほうが簡単なのか」と語られたのである。普通の人がこれを問われると赦すことのほうが簡単だととらえてしまいやすいが、それは本当の赦しではない。罪を赦す権威があるのは神だけであり、当時の人たちもそのように考えていたからこそ、律法学者たちは「自分を神と同じ権威を与えられたものだと主張し、本当の意味での赦しを与えられるものではないこと、口だけで言っているのだと」イエス・キリストを馬鹿にしたのである。だからこそ、イエス・キリストは赦すと語るとともに、癒しをも行われたのである。先ほど語ったように人には赦すことのほうが簡単に見える。しかし、癒すことよりも赦すことのほうが困難であり、神にしかできないことをキリストは強調しておられたのである。そして、その命を脅かすものを処理することよりなにより、霊を脅かす罪の存在を処理することの重要性をここで示しておられたのだ。先日のメッセージも今日のソロモンのところと共通しているところがある。契約の箱がなぜ与えられたのか。それは誠の神が人格的交わりを持とうとしておられることの表れである。イエス・キリストは自分が何者か、神の子であるということを語ったのではなく、神とどのような交わりをしているかということをもって自らを明らかにしようとした。お互いの人格を最もよく知るためには、共に何か事を行うことが必要である。血縁的な意味で親子ではあってもかかわりを持たず、寒々しい関係の人がいるのと同じように、神とイエス・キリストの関係もただ、親と子であるから成り立っているのではない。豊かな交わりを持たれているのである。だからこそ、神と同じ心をもって人々を愛し、罪から救おうとその使命に生きようとされたのだ。ただ親子の関係で象徴しているのではなく、その中にあるかかわりのなかでどのようなことをしたかが重要なのである。私たちも子どもやかかわる人格とともに何をするかということを大切にしたい。しかも、それはあえて行う必要がある。しなければならない状況が来たからするのではなく、そのような状況をわざわざ作り出すのだ。そしてともに取り組んでみると相手がよくわかる。何を考えているのか、どのようなことに賜物があるのか、何が足らないのか。またその交わりの中で「愛すること」を実行していくことにより、相手との関係が豊かに持たれるのである。信じるということはいくらでも口で言える。だからこそそのために何をするのかが重要だ。神を知り、神の恵みが私たちを豊かにし、その恵みが私たちの周りにも分け与えられていく。神の恵みを受ける中には多くの重要なポイントがある。もちろんそれは聖書に語られているが、それを生活の中で結び付けていかなければそれは神からの恵みだと理解できない。理解できるからこそ、私たちは継承ができる。その具体的なものは証によってのみ人からあらわされる。キリスト教は大切なもの、そこに何があるのかという部分を多くの人の心に残しているのだ。だからこそ、継承されて発揮される力が大きい。そしてそれを理解したもののみが、このキリスト教を愛する人格に継承したいと本気で望むのである。もちろんそれが全部であるというわけではないが、それに取り組んだものが受ける大きな恵みがあることを忘れてはならない。


Q:先週の祈祷会の話の中でことが起こった時に神は「心がどのように動いたかを見ている」と語られていましたが、もう一度お話しいただいてもよろしいでしょうか。

A:見られているという事実自体は私たちがどうにかできるものではない。それを私たちが承知しているかということが大切なのである。私が何かをしたときに「ああどうしようこれは誰の責任だ」、「この責任を誰のせいにしようか」と考えた瞬間に神は「山本嘉納は逃げた」ということを知っておられるのである。神がいないと思っている人たちは何かが起こってしまったときに「誰が見ていただろうか」「誰かに見られていたら恥ずかしい」「ばれてないから大丈夫」という風に人の目を気にする。しかし、神の存在を知る者たちは時に人の存在よりも神が見ておられるということを気にするようになるのである。それが私たちにとっての抑止力になったり、逆に力になったりするのだ。またそれは時に私たちが気づかないうちに、自分自身すらもごまかしてしまったような心の動きすら見られていることを注意していきたい。しかし、一面そのようなことを喜べるか否か、ということによって私たちは自分自身をどのように理解しているか知ることができるだろう。本当に真実に神を大切にして生きている人はそのように告げられた時、とにかく喜ぶだろう。なぜなら見られて困ること、そのような心の動きがないからである。しかし、少しでもそれを恐れるならば、きっと私たちの中に悔い改めなければならない出来事や、心の動きがあるのだろう。私たちは心を見られる神を喜ぶとともに恐れるだろう。ならば、なお真実に神の前にへりくだり、悔い改めとともに歩まさせていただきたく願う。私たちの罪はいいことで相殺されない。神の前に罪があるならば、まず悔い改めてから、その私たちの神に喜ばれる心の一面を見ていただきたく願う。
私たちが神との関係を豊かに持っているとき、それは必然周りの人格との関係も豊かにされるものである。というのは、神との関係を良好にするために私たちは多く、その教えに従い自らを戒めたり、その愛を育むための行為に自らを没頭させるからである。イエス・キリストに倣う私たちは必然同じように周りの人を愛すようにと自らを動かしていくのだ。だからこそ、その神との関係、他者との関係は切っても切り離せないのである。
そして、そのように生きていこうとする者たちの中には整った思想が与えられる。彼らは一貫した芯、生きる指針を聖書に表された神の教えにおいているからである。だからこそ私たちの人間性が信仰生活の中に確立されていく。それは他者との信頼関係を築くうえで大切なものである。なぜならその人が一貫した人間性を持つからだ。芯がない人の意思はすぐに揺れ動く。その行いには正当性が失われやすい。気分で動いている相手に自分の大切なものを任せられるだろうか。しかし、相手が必ず揺らがないことが分かれば、これほど心強いことはないだろう。もちろん決してすべてに揺れ動かないわけではない。しかし、そこに確かな指針があるならば、折れることなく、再び立ち上がることができる。だからこそ、相手に信頼ができるのである。信仰者は夫婦が信頼しあい、親子が信頼しあい、その中で社会の人々と信頼しあい、好循環を生むのである。信仰生活が私たちの整った人間性を作り上げていく。なお私たち自身の信仰が「これがなければ成り立ちません」というほどのものになっていくように願い、取り組んでいきたい。


Q:神と人間の関係は信じられるが、そこにイエス・キリストの十字架があるということが信じられない、乗り越えられないという方が多いと感じます。それをどのようにしたら伝えることができるでしょうか。

A:最終的にはその人のうなじが折れるかどうかである。それによってイエス・キリストを受け入れられるかどうかになる。そこに至るまでにどのようなものがあるかは計り知れない。 私たちのほうは何とか説得したいと思うが、最終的には相手が心から受け入れられるかどうかである。今は時代が良すぎて、そういうものがなくても生きていけてしまう。人が行き詰まっても生きていける時代なのだ。この世の支配の強さを感じる。文明ほど怖いものはないと思う。とはいえ、一昔前のように何らかの足りなさがあるからこそ、神を頼るということもまた、抱える危うさがあることも感じられる。今は福音がなくてもいのちがつながってしまうように思える時代なのだ。本来はそうではないのにもかかわらず、私たちはそのように思わされてしまう。そして、自覚した時にはもうすでに遅い。または自覚せずに終わってしまう。だからこそ、狭い門をこじ開けるかのように入り込んでいかなければならないのである。私たちはそれを心から惜しいと感じる。だから多くの場において伝道し、証しする。しかし、それでも救われる霊の少ないことを見ると、まるで水の上にパンを投げるようなことだと思う。そしてあきらめてしまう者も出てくる。しかし、そうではなく、救われる霊が少ないならば、なお一層そこに励みたい。わずかでもそこに神の真理とイエス・キリストの愛を見出し、救われる霊が与えられることを願って取り組み続けていきたく願う。そしてそのような世の中を見るからこそ、私は一方で信仰の継承は最も効率のいい現場であるように思う。だからこそそれをもったいなくもくじいてしまうのを見ると、なんとも残念に思う。一番近くに生き、一番愛を注ぎたい人格を私たちはこの世の中に取られてしまうのだろうか。そうであってはならない。なお強い信仰をもって、その信仰に生きる姿を子どもたちに見せながら、私たちが生きる上で一番大切なこの信仰を継承していきたく願う。また今月も日々の歩みの中に感謝を覚えながら、豊かに喜びとともに歩まさせていただきたく願う。しかし、時に感謝も湧きあがらないほどの苦しみに会う時があるかもしれない。それでもそこに信仰によって立ち向かう時に、神はその先で確かな憐れみをもって私たちを慰め、励まし、力づけ、共にその所を乗り越えてくださる。しかし、それは取り組んだものにしかわからない。ただ、多くの場でそこを乗り越えた信仰者の背をその証しに見ることができる。感謝を分かち合うことができる。神が豊かにその先を示唆してくださっているのだ。ともに信仰に生きる友によって励まされるひと月をまた歩まさせていただきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)