同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 世に関する神のご計画について (6) —

「主からエレミヤにあったみことばは、こうである。「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう。」 私が陶器師の家に下って行くと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。 陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。 それから、私に次のような主のことばがあった。「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。──主の御告げ──見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。 わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると語ったその時、もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行うなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す。 さあ、今、ユダの人とエルサレムの住民に言え。『主はこう仰せられる。見よ。わたしはあなたがたに対してわざわいを考え、あなたがたを攻める計画を立てている。さあ、おのおの悪の道から立ち返り、あなたがたの行いとわざとを改めよ。』」(エレミヤ書 18:1-11)

5.不可抗的恩恵に関して
 神の救いに抵抗しそれを受けないことがありうるか。
「神によってはじめから救いに定められた人は必ず救われる」ということを「真」としていることから生じる議論です。

 極端なカルヴィン派の信仰では、ひとが救われるのは、聖定、神の予定、神のご計画によるのであって、人が選ぶのではありません。ですから、救いに予定されているひとが、自分で滅びを選択する、つまり救いを拒絶するということはありえないのです。人間は霊的には死体です。神が働かれていのちを与えられるまでは、自分で選ぶものはなにもおきてきません。神がいのちに予定したひとを覚醒され、救いの必要に目覚めさせ、罪を自覚させ、イエス・キリストに救いがあることを悟らせ、その救いを求めさせ、悔い改め、イエス・キリストを信じ救われるに至らせなさるとします。
ですから、その過程に抗って人間が何かするということは起きえないのです。そのいのちに与る人は、世のはじまる前から予定されており、名前も全部きまっているとされています。

 アルミニウス派は、神はイエス・キリストの救いを備え、信じる全ての人を救うとします。全的に堕落したひとがそこに至るために聖霊が助けをお与えになるのです。しかし、あくまで決定する、つまり「信じる」のは人間であって、聖霊が決めてしまわれるのではありません。そこに、めぐみに漏れる余地があります。救いそのものが、人間がイエス・キリストを信じるか否かにかかっているのですから、救いを拒絶するという発想は起きてきません。

カルヴィン派とアルミニウス派の神学をわけたものとして次の3点が大切です。

1. 神はなぜ人間をお造りになったのか?
人間と交わりをしたかったからです。
人間が自由でなかったなら交わりは成立しません。人間でも他の人間と交わりが出来ますが、ロボットとは交わりができません。聖定の教理にはその自由がありません。

2.神ご自身の自由に対する考え方
 神はご自分が予定されたご計画を変更する自由をお持ちです。聖書はその宣言に満ちているといっても過言でありません。冒頭のみことばはその一例です。 他の例ですが、「主は川を荒野に、水のわき上がる所を潤いのない地に、 肥沃な地を不毛の地に変えられる。その住民の悪のために。」(詩篇 107:33) と書かれています。「住民の悪」が原因であって、それが神を動かし、神は彼らの住む地を変えられたのです。この住民の悪は神が聖定されたものではないことは明らかです。「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。」(ヤコブ1:13) 神がご自分のご計画を変更されたら、聖定すなわち<不変の>予定の教理は成り立ちません。

3.神が福音を人間に委ねられたこと
 神は誰かが救われることを、先に救われたひとに委ねられました。
「しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」」 (マタイ 28:16-20)

 人が救われるか否かはあらかじめ決まっているのではないことが明らかです。
 隣人を救うために働くひとの愛、信仰、技量、献身の程度・・によって、その隣人が救われたり救われなかったりします。
ですから、キリスト者には隣人の救いのために必死になることを求められます。
自分の息子、娘、親、兄弟、親戚、近しい隣人、等々が救われないのは、彼らが滅びに予定されたためだと言っているわけにはいきません。イエス・キリストを信じる全ての人が救われるのですから。

 極端でない穏やかなカルヴィン派であるためには、この命題についても「救いに定められているひとは、それを拒むことができない」と信じると同時に「差し出されているキリストを信じる信仰を拒絶することができる」とも信じることになります。