同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 世に関する神のご計画について (7) —

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」(ヨハネ 10:28-29)
「キリスト・イエスにあって私とともに囚人となっているエパフラスが、あなたによろしくと言っています。 私の同労者たちであるマルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくと言っています。」(ピレモン 23,24)
「デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行ったからです。」(テモテⅡ 4:10)

6.聖徒の堅忍に関して
 一度救われたひとが、救いの恵みを失って滅びることがあるか。

 「聖徒の堅忍」というのは、極端なカルヴィン神学の「ひとたび救われたひとは、決して滅びることがない」ということで、冒頭に掲げた最初のみことばが論拠とされます。
 確かに救いの恵みに与ったと見えるひと、救いの証しをし、教会のために働きをしたひとがやがて恵みを失い、教会から去り、信仰を捨てる事例をたくさん目にします。聖書の中にもデマスのように、パウロの同労者であったひとが、「この世を愛する」ひとに変わってしまった実例がのせられています。しかし、極端なカルヴィン派のひとびとはそういう事例を「それは救われたように見えただけで、本当は救われていなかったのだ」と解釈します。
 ウェストミンスター信仰告白の文をそのまま引用しますと、
「第17章 聖徒の堅忍について
1 神がその愛するみ子において受け入れ、みたまによって有効に召命され、きよめられた人々には、恵みの状態から全的にも最後的にも堕落することはあり得ない。かえってその状態に終りまで確実に堅忍し、そして永遠に救われる。
2 聖徒のこの堅忍が依拠するのは、彼ら自身の自由意志にではなくて、父なる神の自由・不変の愛から出る選びの聖定の不変性、イエス・キリストのいさおしと執成しの効力、みたまと神の種が彼らのうちに宿ること、および恵みの契約の性質にである。これらすべてから堅忍の確実性と無謬性も生じる。
3 それにもかかわらず、彼らは、サタンとこの世の誘惑、自分のうちに残っている腐敗の優勢さ、また自分を保持する手段を怠ることによって、ひどい罪に陥り、しばらくの間そのうちにとどまることがある。このため彼らは、神の不興をひきおこし、神の聖霊を悲しませ、自分の受けている恵みや慰めをある程度奪われるようになり、心をかたくなにし、良心を傷つけ、他の人々をつまずかせ、また自分に一時的審判をもたらす。」
 要約すると、「(1、2 項)神の選びの聖定によって救われたのであるから、救いから漏れることはない。救われる以前の状態にもどることはない。
(3項)この世の生活で、神を信じるものに相応しくない罪に陥ることがあっても、赦され、回復され、永遠の命を失うことはない。」ということになります。
 「聖徒の堅忍」の教理は、人が救われるのは神が命に予定したからである、という極端なカルヴィン主義に深く結びついていることがわかります。
 ある方が「私はカルヴィン派の信仰を持っていてよかった。アルミニウス派だったら、自分は滅びるかも知れないと心配しただろう」と述べていましたが、それは逆なのです。アルミニウス派は、「彼(イエス)を信じるものは<全て>永遠のいのちをもつ」と信じているのですから、自分が救いに漏れる心配はないのです。カルヴィン主義ですと「自分は滅びに予定されているかも知れない」とも考えなければなりません。先に述べたように、信じていたはずの人が信仰を失っていく事実があるのですから、心が信仰に燃えている状態から少し冷めてくると、自分も信じたつもりだけかも知れないと疑わないでしょうか。
  前に述べたように、聖定を中心とする、極端なカルヴィン神学を信じながら、自分は「礼拝するから」「祈りをするから」「宣教をするから」極端なカルヴィン派ではないと思う人は、一番最初に例に挙げた、信じている教理と生活している教理が違っている人です。看板はカルヴィン派で、実際はアルミニウス派ということになります。
 ですからこの命題も「聖定によって命に選ばれているから」と同時に「イエス・キリストを信じているすべての人が救われるから」の両方を信じることによって穏やかなカルヴィン派でありえるでしょう。 

 ただし、パーマが解説している「カルヴィニストは二律背反の両者を受け入れる。」ということは、「然り」と「否」を同時に信じることであって、それはイエスの教えでも、パウロの教えでもありません。
イエスはこう言われました。
「あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。」(マタイ 5:37)
パウロは次のように主張します。
「私にとっては、「しかり、しかり」は同時に、「否、否」なのでしょうか。 しかし、神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちのことばは、「しかり」と言って、同時に「否」と言うようなものではありません。」(コリントⅡ 1:17-18)
対象にしている事柄が違ってもそのあり方は共通です。

 カルヴィン神学の命題の5項目、英語で頭文字をとってTULIPを信じることは極端なカルヴィン主義であるというのは、それだけを信じるなら死んだ後の世のことは全部決まっていることになるからです。