同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 救いについて(28) —

野澤 睦雄


「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。 」(ヘブル12:2)

3.聖書が示す人間観・・・救いの必要、救いの内容を考察する基礎

 ・神が人間のために備えられた救いに関する聖書の記述

<信仰>

「信仰は、私たち新約のキリスト者に、聖霊が新生のいのちの内につくられるこころの機能のひとつです。」と説明しましたが、冒頭に掲げたみことばの通り、イエス・キリストがその創始者であり完成者です。前回、聖書中の人物ではない証人の例を取り挙げましたが、今回は聖書中の人物を取りあげてみましょう。

  - 信仰を持った聖書中の人物 -

1) シロアムの池で目を洗った盲人
「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。」(ヨハネ 9:1-7)
 この人は生まれつきの全盲で、道ばたに座って物乞いをして生活していました。イエスがそのひとと接触されたのは、”たまたま”という雰囲気で記述されています。この盲人はイエスを信じていませんでしたが、弟子たちの質問とイエスの答えを聞いていたことでしょう。そしてきっとイエスの答えがユダヤ教の普通の教師たちと違っていたので、ためらうことなくイエスの指示したとおり目に塗りつけられた泥を洗い落とすためにシロアムの池にいったのでしょう。それで彼の目は見えるようになりました。
 この段階で彼はイエスを神から出た預言者だと信じました。
イエスを神から出た方であると信じない、パリサイ人たちとの会話にそう証言しています。
「そこで彼らはもう一度、盲人に言った。「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」彼は言った。「あの方は預言者です。」」(ヨハネ 9:17)
パリサイ人たちとのやりとりの結果、彼は会堂から追放されました。
「彼らは彼をののしって言った。「おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。 私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ。」彼は答えて言った。「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。 神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。 盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」 彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。」(ヨハネ 9:28-34)

 この後、イエスの方から積極的に彼を探されてその信仰を確かなものとされました。
「イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。」(ヨハネ 9:35-38)
 こうしてこのひとは、イエスを預言者以上の方、「キリスト」と信じ、「信仰を持っている人」となりました。イエスはこの盲目であった人の「信仰の創始者」になられました。この人の心に新生のいのちが与えられ、そして信じるこころの機能が与えられたのです。あとのことは記されていませんが、きっとこの人はペンテコステの日に二回座敷に集まっていた人々の中にいたことでしょう。そしてイエスはこひとの「信仰の完成者」となられたことでしょう。

2) サマリヤの女
 スカルと言うサマリヤの町のヤコブの井戸の傍らで、イエスが出会った女の人、(ヨハネ 4:1-42) も、同じようにイエスに導かれました。
彼女もイエスに罪の生活をしていることを指摘され、イエスを「預言者」だと思いました。(ヨハネ 4:19)
 更にイエスと問答をし、教えられているうちに、イエスを「キリスト」だと信じ、町の人々にそう証言しました。(ヨハネ 4:28-29)
 その証言を聞いた町の人々がイエスのもとをおとずれ、イエスを信じました。

 信仰というと、「彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、 火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。・・・」(ヘブル 11:33-38)のようなものや、「山を移して海に入れる」(マタイ 21:21)ようなことを思うかも知れませんが、「信仰とは何か」との答えは、前述の例にあります。
旧約の人々は「神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。」(ヘブル11:40)

(仙台聖泉キリスト教会員)