同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— キリスト者の一致(1) —

石井 和幸

「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍びあい、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」(エペソ 4:1~3)    

 この聖句は、年頭に私に与えられた御言葉であります。今年は私の家庭において主にあって一致を保ち、また事業においてもスタッフ同士の一致が必要不可欠であることを示されています。
 私は今、D・M・ロイドジョンズ著の「キリスト者の一致」という本を読み始めています。この本は今年1月に召天された山本和子婦人伝道師が、私の誕生日にプレゼントしてくださったものでした。いつ戴いたかは、はっきりとは覚えていませんが、確か私が大学4年生位だったかと思います。当時の私は、牧師先生方との距離感がかなりあったにも関わらず、いかにも自分は若い牧師の片腕かのような言動を、教会の内外でしておりました。「なぜ、この本を私に選んでくださったのですか?」と和子先生に結局聞かないまま先生は天に召されましたが、今思えば間違いなく当時の私に是正を促すための本でありました。それなのに私は、戴いた本を少し眺める程度で、読んでおりませんでした。昨年末、自らの課題として「一致」することを示され、この本があったことを思い出し、恥ずかしながらやっと読み始めました。
 まず、この本の第1章では、エペソ4章1節の冒頭にふれて、「それゆえに」と題をかかげて書かれています。(新改訳聖書第3版と2017では「さて」、新共同訳聖書では「そこで」と書かれています)エペソ1~3章までの、イエス・キリストの救い、神経験が「自らのもの」として与えられ、「それゆえに」4章から始まる信仰生活への実際的適用につながるという内容でした。「教理」だけの信仰、またそれとは逆に「体験・経験主義」のみの信仰で止まってはならない、偏ったクリスチャン生活であってはならないことを著者ロイドジョンズは語っています。
 私自身、普段はどっぷりと社会生活に浸かっています。聖書から語られるみことば、教会の講壇から取り次がれるメッセージをどのように適用して、実践し結実を与えられるかは今の自分にとって大切なことで、主の御前に日々へりくだる必要を示されています。
 週ごとのメッセージでは、イエス・キリストの十字架によって贖われたものとして、「キリストとともに十字架を担う」とは今の自分にとってどういうことか、語られています。そのことを求めてキリストの福音に生きるがゆえに、この世における営みも「主からの召し・信仰の実践」として、常にみこころを探って歩まなければならないことを教えられています。
 天に召された山本光明牧師・和子伝道師も「みことばを学ぶ姿勢、心構え」と「信仰の実践」「聖潔の結実」という事柄をとても大切にされて、自らそこに生き続けてその背中を見せてくださり、私のような者でもともに取り組んでくださいました。
 今礼拝では、私たちが勘違い・誤解してはならない大切なことが語られ、促しを受けています。「キリスト者の一致」についての私の学びと取り組みはなお続きますので、今回の表題に(1)を付けました。なお主が豊かに道を示し、ともに戦ってくださることを信じて従い続けるものでありたく思っております。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)