同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 救いについて(24) —

野澤 睦雄


「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。 」(創世記 15:5-6)

3.聖書が示す人間観・・・救いの必要、救いの内容を考察する基礎

 ・神が人間のために備えられた救いに関する聖書の記述

 神は人間に「救い」と「きよめ、聖潔」という救いの道を備えて下さいました。
そして「救い」には、「義認」と「新生」という内容が含まれています。
「きよめ、聖潔」には、「古い人(原罪、罪の性質、古い自我)」の死と「聖霊の満たし」という内容が含まれています。 この「きよめ」は「キリストと共に死に、キリストと共に生きる」ことです。
 それらについて、聖書は何といっているか拾い上げてみます。

<義認>
1) 義と認められる条件である人の変化
 冒頭に掲げたみことばから「アブラハムは神を信じた」それを「神は彼が義であると認められた」と読み取れます。
 義であるためにアブラハムが変わったことはそれまでとは違った意味で「神を信じた」点にあります。それ以外は何も変わっていません。
「神を信じる」という変化は、救いに与った私たちにはそれが「大きな変化である」ことが分かります。
 イエス・キリストを信じることも同様で、「信じる」という変化が私たちの内におきます。
「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」(ローマ 3:22)
 十字架上でイエスを信じて救われた強盗が、その内容をよく示しています。彼はイエスを信じたのです。ただそれだけです。他に何もないことは明らかです。
この信仰という条件なしに人が救われることはありません。
信仰という条件を否定する意味での無条件の選びによって、神が一方的に人を救われるというのは聖書の教えではありません。

2) 義と認めることの意味
 アブラハムが信じること以外何も変わっていないのに義と認められたということは、神が「この者は義である」と宣言されることであって、中身は変わっていません。
実質的に義であるものとなる課題は「新生」の領域です。

3) 行いによっては義とされないこと
   「律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」 (ローマ 3:20)
 パウロは「律法を行うこと」を取りあげていますが、今の世にあっては「善行を行うこと」と置き換えて差し支えありません。
いくら善行を行っても罪は帳消しにはなりません。善行をしなくてよいのではありませんが、神の前に義であることは別のことです。

4) 人が義と認められるのは「イエス・キリスト」の贖いによること
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」 (ローマ 3:23-24)
 アブラハムについては、その背景は何も書かれていませんが、新約の私たちには神が信じる人を義とされる根拠はキリストの贖いであると示されています。

5) 人が行ったすべての罪は義認よって帳消しになること
「ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。モーセの律法によっては解放される(赦される)ことのできなかったすべての点(罪)について、信じる者はみな、この方によって、解放される(赦される)のです。」(使徒 13:38-39)
 実際の信仰生活においては、誰かに対して行った罪を思い出して謝罪に行くことがありますが、神の前にはすべての罪が義認と同時に赦されるのです。

6) 信仰によって「神の義」をもつものとなること
「私には、キリストを得、また、 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」(ピリピ 3:8-9)
 神は人を義と認めるとき、「その人の義」ではなく「神の義」をお与えになります。

7) 義とされる前は「神に敵対する者」ですが、義認はその人を神と和解させること
「これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」(コリントⅡ 5:18-20)
「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」(コロサイ 1:20)

8) 義と認めれた人は神の怒りを免れること
「今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」(ローマ5:9)

(仙台聖泉キリスト教会員)