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キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 救いについて(18) —

野澤 睦雄


「また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」」(マルコ 7:20-23)

2.救いに関して知っておくべきこと

  ・「義と聖と善」の概念
  ・「罪と汚れと悪」の概念

 冒頭に掲げたみことばに、イエスは「悪い考え、不品行、盗み、・・・、これらの悪は・・人を汚す・・」と言っておられます。
最初に取りあげられている項目は、人の「罪」です。それを「悪」とまとめて表現され、その悪は「人を汚す」と断定されました。
 これらのことばが聖書の中でどのように用いられているかは、非常に多様で、厳密かつ単純にまとめることはできないでしょう。ただ「悪」には、積極的に「神に敵対する」概念が含まれています。また「汚れ」には悪の結果神と反対の品性をもった姿が表されています。
「罪」には実行した「行為である罪」と、人間に内在している「性質としての罪(罪性)」があります。「行為としての罪」に対しては、イエスの十字架の贖罪による「赦し」が、「性質としての罪」に対してもイエスの十字架の贖罪による「聖化(聖潔、きょめ、などとも表現されます)」が備えられています。
 これらのことばに対する神の側のことばが「義と聖と善」で、 神の「義」の反対が「罪」、神の聖の反対が「汚れ」、神の善の反対が「悪」です。

 救いの恵みに与った人には、そのこころに聖霊が住んでくださり、神の性質が分け与えられます。
 ですから救いの恵みをうけたひとは「聖い」のです。それは「潔い」とも表現します。そしてその集まりである「教会」も「聖い」のです。神は「罪性」のきよめである「全き聖化」の恵みも備えていてくださいますが、そのまえの段階である「救われた」ひとびとはみな聖いのです。  

(仙台聖泉キリスト教会員)