聖書研究
— 救いについて(19) —
野澤 睦雄
「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。」(ペテロⅡ 2:20)
2.救いに関して知っておくべきこと
・救われた後の悪癖との戦い
最初の戦いと後に再度また同じ悪癖に
陥った時の戦いの違い
救われた人は、自分が悔い改めた罪をまた犯してはならないのは勿論ですが、信者として好ましくない習慣つまり悪癖と呼ばれるものがあり、それも避ける必要があります。
パウロが信者にむかって「盗んではいけません」といっている聖書の箇所が何カ所かあります。その場合も悪癖との戦いと同様の戦いをすることになります。
悪癖のうちでよく知られているものは、喫煙、飲酒です。
私の身内に救われた時喫煙の習慣と向かい合ったひとが二人います。二人とも救われた時、「救いの恵みに与ったら、たばこを吸いたいと思わなかった」と言っていました。
はじめに救いの恵を求めているときは、自分の抱えている課題を「なんであってもそれをイエスに話す」ことが求められていることのすべてです。イエスはそれを解決してくださる力をお持ちです。「たばこを吸いたいと思わなかった」、これがイエスの解決です。
しかし信仰生活を続けるうちに、その信仰が衰える時があり、また喫煙の習慣に戻ってしまったとします。信仰が衰えるからには何か問題があるのです。その問題にしっかり立ち向かって悔い改めるなら、はじめと同じように恵みを下さることでしょう。しかし喫煙が習慣なって、自分で「また吸ってしまった」と後悔する日々が続くこともあるでしょう。その時の戦いは、イエスに助けを求めるとともに、自分の意志を働かせて戦わなければならないのです。たばこでしたら、「買う」、その時点が戦いの場です。買ってしまって、ポケットにいれ、吸わないぞ、と思っても負けるに決まっています。しばらくそれを続ければ、「たばこの習慣性」が体から抜けて、その戦いも必要がなくなるでしょう。
酒つまりアルコールにも、タバコに劣らない強い習慣性があるのです。世に薬草を入れた健康酒なるものがあります。健康のためといってそれに手を出すことは、飲酒の習慣への入口です。
飲酒癖に陥ったひとびとは、なんとか「聖書は酒を禁じていない」と主張しますが、本当は神をもその聖をも求めていないのです。
酒も救いのはじめには、イエスによって解放されます。たばこの例にあげた二人とも酒にもそうでした。再び酒に手をだしたら、それから解放されるためには、たばこの場合と同様の工夫と意志の働きが必要です。
他のことにも同様ですから、この場合と同じように取り組むことが必要です。